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横浜にぎわい座は、落語、漫才、大道芸などの大衆芸能の専門館です。

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1.寄席

Q1 「高座」の由来を教えてください。

寄席の舞台を「高座」と呼ぶのは、僧侶が説教をするために座る高い台を「高座」と呼ぶことから来ています。
「前座」は高僧の前に話をする修行僧を指す「前座(まえざ)」から、講談の別名「講釈」は仏教の教えを解釈し講義するという意味からです。皆、仏教由来の言葉です。


Q2 寄席の高座(舞台)への登場は上手からですか? 下手からですか? 決まりはありますか。

向かって右が上手、左が下手ですが、にぎわい座や鈴本演芸場、末広亭は上手から、浅草演芸ホール、池袋演芸場、国立演芸場、浪曲の木馬亭は下手から登場します。その寄席ごとの楽屋と高座の位置の関係で使い勝手のよい方から登場しているからです。
決まりはありません。


Q3 着物には決まりがありますか?

黒紋付きに袴が正装です。落語や講談では、昇進、襲名の口上や、正月などめでたい高座で装います。
通常は袴をつけず、紋付きの着物に羽織姿が多く見受けられますが、武士が登場する噺、動きが多く、すそが乱れやすい噺では袴を着ける演者もいます。
しかし浪曲の場合は袴をつけて演じることが一般的です。着物は江戸では噺の邪魔にならない色紋付きや渋好みが好まれ、上方では鮮やかな色や、明瞭な紋様の入った着物が好まれる傾向があります。
また、夏には絽や紗の羽織や着物が涼しげに見えます。なお、羽織の着用は二ツ目から許されます。
絹物ばかりかと思いきや、化繊のものも多いのだそう。それは「洗える着物」。
芸人さんにとって着物は日々の作業着なので、洗えることは重要ですよね。
化繊といっても絹物に負けない質感で、実はお値段も勝るのだとか。芸人さんの個性も感じられる着物もお楽しみください。


Q4 “紋”について

二ツ目(浪曲は名披露目)になると、“紋付”を着ることが許されます。基本的には師匠の紋を付けますが、実家の紋を使う人もいれば、名跡を襲名して先代の紋を踏襲する人もいます。春風亭昇太師匠のクラゲや林家彦いち師匠のげんこつなど、オリジナルデザインも増えています。また、形見分けで着物を譲り受けることもあります。
その時、自分が使う紋でなかったら、どうするのでしょう。手っ取り早い方法として紋のシールを貼るというのがあります。一般的な紋なら通販でも販売しています。「笑点」の大喜利の着物にもシールが使われています。


Q5 お囃子さんにはどうやってなるの?

寄席の出囃子で三味線を弾いてる“お囃子さん”。現在は国立劇場の寄席囃子研修生からスタートしますが、「長唄三味線の素養」が応募資格となります。研修では長唄の他、清元、端唄、鳴物(笛や太鼓)などを学び、適性検査を経て各協会に所属します。


Q6 お囃子さんの仕事は?

出囃子を弾くだけがお囃子さんではありません。紙切りで「サンタクロース」と注文が入れば「ジングルベル」を、流行りのドラマが出れば主題歌だって弾いちゃいます。即興なので技量とセンスが問われますよね。
高座を陰で支える芸人、お囃子さんもすごいアーティストなんです。


Q7 東京と大阪のお囃子さんの違いは?

研修生から協会に所属する東京に対して上方(大阪)は師匠に入門します。噺の中に三味線が欠かせない演目も多く、にぎやかな上方落語の魅力の一つでもあります。上方落語協会のホームページには顔写真とともにプロフィールが紹介されています。


Q8 着物はお囃子さんのユニフォーム

東京のお囃子さんが表舞台に出ることは滅多にないですが、裏方で演奏しているときは勿論、寄席やその他の会場への行き帰り、いわば“通勤”時も常に着物です(夏は浴衣も)。その上に三味線を持っての移動は大変ですが、ここにも伝統を守り、伝える気概が感じられます。


Q9 真打披露などで行われる三本締めとは?

基本になるのは「シャシャシャン、シャシャシャン、シャシャシャン、シャン」という手拍子です。手を打つ回数が「三、三、三」で「九」、最後の「一」がつくことで「丸」となり、「丸くおさまる」という縁起かつぎです。これを三回繰り返します。


Q10 口上などの「隅から隅まで、ずずずいーと」という言葉は間違い!?

「ずずずいーと」という言葉はなく、「ずいと」が正解です。一つも残さず、すべてにわたる様子を表します。
「隅から隅まで、ずいと御(おん)願い奉ります」で「客席のすべて余すところなくお願い申し上げます」という意味になります。


Q11 「襲名」と「改名」の違いは?

「三遊亭圓生」「桂春団治」「神田伯山」など大物が名乗っていた由緒ある名前を継ぐのが「襲名」です。
今までにない名を考えてつけたりするのが「改名」です。「襲名」には重みがあるといえます。


Q12 大物の芸人を「大看板」という訳は?

末広亭や池袋演芸場の入り口にはトリの芸人の名が大きな看板に一人だけ書かれています。あれが「大看板」です。
その興行の目玉となる大物出演者を一枚の大きな看板に書いたことから大物出演者を「大看板」あるいは「一枚看板」と呼ぶようになりました。


Q13 「おひざ送り」とは?

客席が座敷の場合、混んできた時にお客様に少しずつ前に進んでいただいてすき間を作り、そこに新たに座布団を敷いて座っていただくことです。昔は畳一畳に三人が基本。おひざ送りをすれば一畳に五、六人は座れたそうです。今のご時世では考えられないことですが。


Q14 「天狗連」とは?

アマチュアの落語、講談、浪曲の集団のことを「天狗連」といいます。その名の由来は、趣味が高じて落語や講談、浪曲を演じ“天狗”になっているところを自嘲、揶揄したものです。
その歴史は古く、江戸時代から存在します。近年はその数も増え、大きな大会も複数開催されています。
今なお盛んな「天狗連」ですが、江戸や明治の頃はそこからプロになったケースも多く、上手(うま)いと入門の口をきいてくれる人がいたりと、プロになる一つのルートとして存在していました。
落語では、昭和の名人、五代目古今亭志ん生、浪曲では「次郎長伝」で有名な二代目広沢虎造も天狗連の出身です。


Q15 大喜利とは?

「笑点」(日本テレビ)でお馴染みの「大喜利」。お題をセンスよく解いていく芸ですが、実は「大喜利」は寄席で行う余興全般を指す言葉です。
落語の高座と別に、小噺をしたり、寄席の踊りを披露したりするのも大喜利です。落語会の「トーク」もそのひとつと言えます。


Q16 寄席の始まりまでの落語と講談の歴史を教えてください。

江戸時代になると、大名に軍談を講釈する御伽衆は職を失い、町に出て口演を行うようになります。1600年代末の元禄時代頃には、江戸、大坂、京都に講談師が現れ、神社の境内や盛り場でよしず張りの小屋を建てたりして口演を始め、町人も軍書講談が聞けるようになりました。
講談がよしず張りの小屋掛け興行を始めた元禄時代、落語には京都に露の五郎兵衛、大坂に米沢彦八、江戸に鹿野武左衛門という3人の始祖が現れました。京、大坂は屋外で、江戸は座敷で主に演じました。上方落語が見台を使用するのは屋外で演じていた名残です。
寛政期(1789~1801年)には江戸で浄瑠璃、軍書読み、説教、落語などがはやり、聴衆を集めて料金をとりました。これを寄せ場、または寄せと呼び、現在の寄席につながります。寄席興行を行った一人、初代三笑亭可楽は、くし職人をやめて職業落語家第一号となりました。


Q17 落語の寄席で講談が色物扱いされない理由を教えてください。

講談師の祖である赤松法印は1600年代初め頃に活躍しました。落語家の祖、露の五郎兵衛、米沢彦八、鹿野武左衛門が活躍したのは1600年代末頃です。これにより、講談は落語より歴史があるとされています。落語定席で講談が色物扱いされないのは歴史の長さが理由です。


Q18 寄席太鼓の決まりについて教えてください。

開場時にたたくのが一番太鼓。大太鼓を長バチで打ち、「お客様が大勢いらっしゃるように」という願いを込めて、「どんどんどんと来い」と聞こえるようにたたきます。開演5分前にたたくのが二番太鼓。着到(ちゃくとう)とも言います。締太鼓と大太鼓だけの場合もありますが、笛も入るのが正式です。「幸福が舞い込むように」という意味で「お多福来い来い」と打ちます。休憩の始まりの合図として打つのが仲入り太鼓。この太鼓には縁起かつぎの語呂合わせはないようです。終演時に打つのが追い出し。ハネ太鼓とも言います。「出てけ、出てけ」と打ちます。入場時は演技を担いでいるのに、終演時には薄情になります。これらの太鼓を打つのは前座の仕事です。


Q19 東京と上方では寄席太鼓に違いがありますか。

二番太鼓が終わってから、前座の出囃子が始まるまでの時間が違います。東京の場合、開演5分前に二番太鼓を打ち始めて、終わるのが開演2~3分前。前座の出囃子が鳴るまで待つことになります。上方の場合は開演2、3分前に二番太鼓を打ち始め、太鼓が打ち終わるとすぐに出囃子が鳴り始めます。
仲入りの終わり方にも違いがあります。東京では、ほとんどのお客様が席に戻り、客席が落ち着いたところで出囃子とともに落語家が登場します。上方は出囃子の前に、仲入りが終わる合図となる砂切(しゃぎり)という太鼓を打ちます。そして、客席が落ち着いたのを見計らい、太鼓を打ち終え、出囃子とともに落語家が登場します。
これらの東西の太鼓のタイミングの違いから、笑福亭たまが関東人と関西人の性格の違いに関するユニークな考察をしています。


Q20 師匠と先生の違いについては?

落語では真打になると「師匠」と呼ばれます。講談、浪曲のほか、漫才など色物は「先生」と呼びます。特に、講談、浪曲では、「師匠」は「先生」よりも格下だという考えがあります。しかし、浪曲や漫才、奇術などではあえて親しみを込めて「師匠」と呼ぶ場合もあり、呼ばれた相手にも喜ばれることがあります。ただし、これは呼ぶ側と呼ばれる側との信頼関係が成り立っている場合なので、あえて行わない方がよいでしょう。
また、太神楽曲芸の世界では「親方」という呼称も使われています。


Q21 上席(かみせき)、中席(なかせき)、下席(しもせき)とは?

都内の寄席は原則として10日ごとに公演内容が変わります。1日~10日を上席、11日~20日を中席、21日~30日を下席と呼びます。31日は特別興行が行われ、その興行を余一会(よいちかい)と言います。また、1月に限って、1日~10日を初席、11日~20日を二之席(にのせき)と呼び、大勢の出演者が登場したりする番組が組まれます。寄席ではこの20日間を正月ととらえています。


2.落語

Q1 落語家とはなし家の違いは?

同じ意味で使う方もいます。しかし「落語家」は落語(落とし噺)を演じる者、「はなし家」には落語以外に人情噺という物語重視の演目も演じる者という意味合いもあり、落語だけにとどまらない話芸に通じているという自負のもとに「はなし家」と名乗る方もいます。


Q2 落語の落ちには面白さが伝わらないものもありますが?

落語の特徴は最後に「落ち」があることです。「落ち」は語呂合わせなどの洒落や機転のきいた言葉で成り立っていますが、時代の変化で意味が分からないものも生まれています。落語家の中には時代に合った落ちを創作している方もいます。


Q3 横浜出身の落語家で有名な方は何人くらいいますか?

近年では、桂歌丸師匠や桂米丸師匠、大正から昭和の初めにかけての人気者には外国人商社で働き、英語が堪能だったので、それを生かした落語を演じた初代柳家三語楼師匠がいます。もちろんこの他にも多数いらっしゃり、簡単に何人とは答えられません。


Q4 「新作落語」と「創作落語」の違いはありますか?

この答えの前に「古典落語」という呼称について考える必要があります。「落語ハンドブック」(三省堂)によりますと、「どこまでが古典で、どこからが新作という線の引き方はできもしないし、適当でもない」と記されています。
そして、古典落語と新作落語をしいて区別するなら、古典落語は「①江戸から明治期ごろに成熟した。②その時期の風俗を背景にする。③多くの場合、作者は不明」とあります。③で「多くの場合」という条件がついているのは、例えば三遊亭圓朝作品は通常、古典として考えられているからでしょう。
新作落語については「①大正期ごろ以降に創作された。②現代風俗が多いが『髷物(まげもの)』もある。③作者がわかっている場合が多い。」となっています。結局、古典落語と新作落語の線引きの定義はあいまいなのです。そして、大正時代のものであっても新作落語と呼ばれています。これについては、決して新しくないではないか、「猫と金魚」などすでに古典と言ってもよいではないか、という意見もあり、創作落語という呼称が生まれました。
要するに、「古典落語」に対するものとして「新作落語」も「創作落語」も使われています。しかし、新しく作られたことに着目すれば「新作」、作者のオリジナル性に着目すれば「創作」という呼称が適切でしょう。あくまで私見ですが。


Q5 根多帳について教えて

自分の持ちネタを一覧できるようにした帳面を言います。立川談志師匠は一時、「談志の米櫃」と表書きした帳面を持ち、高座に上がる前に、どの演目を演じるか思案していました。
また、楽屋に常備して、演じた演目と演者を記す帳面も根多帳と呼んでいます。楽屋の根多帳(楽屋帳とも)は各出演者が演じる演目やテーマなどが重複しないように、出番前の確認として使います。江戸の会計帳簿であった大福帳の帳面を現在も使用しており、墨と筆(筆ペン)で書きます。にぎわい座では根多帳を電子化し、公開中です。


Q6 三題噺とはどのようなものですか?

関連性のない三つの言葉を客席から募り、一席の落語にするものです。「芝浜」などの名作も三題噺と言われています。
現代では、みかん・水たまり・電気というお題から喬太郎の「母恋いくらげ」が生まれました。
創作の現場に立ち会えるのは贅沢な経験ですね。


Q7 こどもも楽しめる落語は?

小さいお子様には、動物の出てくる噺をおススメします。例えば「つる」。鳥の「つる」が、どうしてそう呼ばれるようになったかをめぐるお話。前館長の故・桂歌丸の十八番でもありました。リズミカルで、時間も短め。ご家族でお楽しみいただけます。
「寿限無(じゅげむ)」は落語を聞いたことがない方もご存じかもしれません。「平林(ひらばやし)」もおすすめします。
これらの噺は、言葉の音やリズムを楽しめるので、早口にしてみたり、フレーズとして口ずさんだり、小さいお子様との言葉遊びにもぴったり!
慣れてきたら長い噺も聞いてみましょう。昔の季節の行事を描く「船徳(ふなとく)」。お友達に会えない時には「笠碁(かさご)」。
グリム童話を題材にしたといわれる「死神(しにがみ)」。高学年になったら、「大ネタ」と呼ばれる名作にぜひ触れてみて!


Q8 東京落語と上方落語の違いは?

東京弁と大阪弁、舞台となる場所が主に江戸や東京、主に大阪という違いの他、上方落語は見台、膝隠し、小拍子を使うことがあります。
上方落語は寺社の境内などで演じることが多かったため、見台を小拍子で鳴らして派手に演じ、客の足を止めていました。
このような上方落語の派手な演出は三味線などの鳴り物も多用する陽気な芸風を産みました。
一方、東京落語は主にお座敷で演じられたのでじっくりと物語の内容を聴かせる芸風となり、上方と比べると笑いも少ないものでした。
東京落語の人気者である与太郎は上方落語には出てきません。また甚兵衛は東京落語ではおっとりした人物ですが、上方落語では分別があり、頼られる人物となっています。とぼけた喜六としっかり者の清八コンビの掛け合いの楽しさも上方独自のものです。


Q9 上方落語から移された東京落語

東京落語には上方落語から移された演目が多くあります。いくつかの演目について、東京落語と上方落語の違いをみてみましょう。
まず「愛宕山」。東京落語では東京の人たちが京都の愛宕山に行きます。上方落語は京都の旦那のお供で京都の芸者、大阪の幇間が京都の愛宕山に行きます。
「茶金」は上方落語では「はてなの茶碗」と言います。この題名のまま演じている東京落語の演者もいます。東京落語では江戸の油屋が京都に来ていますが、上方落語では大阪の油屋が京都にいます。
「宿屋の富」は上方落語では「高津の富」です。「高津の富」は大川町の安宿に泊まった男が高津神社で千両富に当たります。この噺が「宿屋の富」となった際、同じような地理を選んで整合性がとられています。馬喰町の宿に泊まった男が椙ノ森(すぎのもり)神社、あるいは湯島天神の富くじで千両当てます。大川町から高津神社、馬喰町から椙ノ森神社や湯島天神。どれもが歩いて行かれる距離になっています。


Q10 大阪人と京都人の気質の違いを描く上方落語

上方落語には大阪人と京都人の気質の違いを描く噺があります。この点も東京落語と大阪落語の違いにあげられます。
上方落語の「愛宕山」「はてなの茶碗」はともに大阪と京都の気質の違いが描かれています。ところがどちらも東京落語として演じる時には、京大阪の気質の違いは描かれていません。
気質の違いそのものがテーマになっているのは上方落語の「京の茶漬け」です。ところがこの落語は東京落語にもなっています。演じたのは六代目三遊亭圓生です。圓生は大阪生まれなので江戸東京の人間は登場させず、大阪人と京都人そのままの設定でやっています。ところが「大阪弁と京都弁の使い分けをするだけでもむずかしい」のであまり演じていないと語っています。「めずらしいというだけの噺です」(圓生全集第二巻)とも述べていますが、上方落語で聴くと楽しいことは確かです。


Q11 落語の「お金」

文(もん)、朱(しゅ)、分(ぶ)、両(りょう)。今とは違う単位でさっぱりわからないのが落語のお金。
簡単に説明しますと4000文=16朱=4分=1両です。「時そば」は16文、1文=20円とすると320円。そうなると少し身近に感じられると思います。
では、1文20円とするならば1両はいくらでしょうか。そうです、8万円です。時代によって違いがあるようですが、1両の価値が今ならだいたい10万円前後とすると目安になると思います。「十両盗めば首が飛ぶ」の十両はおよそ100万ということになります。
「大工調べ」で与太郎が溜めた家賃、1両2分と800(文)は約17万円、「火焔太鼓」の300両は約3000万円、「宿屋の富」で当たった1000両は約1億円という計算になります。正確な計算ではないですが、庶民の金銭感覚から見た大金、といったところでしょうか。


Q12 落語に出てくるお金の重さは? 

『小判』というと分厚くてずっしりと重い印象がありませんか?
しかし実際は一枚約18g(500円玉が7.2g)。時代によっては9~13gのものも。
大きさは縦が6~7cmあってかなり薄く、「愛宕山」で土器(かわらけ)代わりに投げたくなる気持ちもわからなくはない?
「宿屋の富」で客が宿屋の主から買った富札が1枚一分。客は袂から一分を取り出し「袂屑かと思った」といいます。
それもそのはず、一分金は約17mm×約10mmと、指先に乗るほど。幕末の万延一分金は7mm×12mm、重さもわずか0.87gと、まさに“小粒”です。


Q13 落語家の扇子

落語の小道具といえば扇子と手拭いですが、その扇子は「高座扇(こうざせん)」という、落語の高座で使うことに特化した扇子です。
普段使いの扇子より中骨が少なく、親骨の先が広くなっているため閉じたときに扇面が隠れ、箸や煙管などに見立てた時も違和感が少ないです。
開け閉めの時にパチパチと音が出やすいものも高座扇ならではですね。大きな舞扇や礼装用の白扇なども音は出ますが、片手で開け閉めが出来、扱いやすいのは小ぶりな高座扇です。上方では通常、白扇を使いますが、近年は東京の高座扇を使っている方もいらっしゃいます。


Q14 現代が舞台の落語でも着物で演じることが多いわけは?
着物は洋服ほど男女差に違いがないこと、体の線がくっきりと表れるので、所作によってさまざまな人物を描き分けるのに適していることが考えられます。観客に自由に想像してもらうには洋服よりも着物の方がよいようです。


Q15 「学生落語」について教えてください。

高校や大学などにある「落語研究会」もアマチュアの集まりである天狗連の一種です。現在、多くの落語家さんが“オチケン”の出身です。
落研にはOBの落語家が教えに来ることもあれば、一門が代々教えているところもあります。
大卒落語家の誕生は近年のことで、かつて落語家の社会的地位はとても低いものでした。
戦後、大学で落語研究会が誕生すると、寄席で芸を磨き上げた名人に教えに来てほしいという申し出に対し、落語家も学生に敬意をもって教えに行き、現在まで続いています。
このような動きに対して、プロには教わらないという学校もあります。


Q16 落語家の稽古方法は?

昔は「三遍稽古」と言って、師匠に三回演じてもらい、それだけで覚えていたというから驚きです。
録音ができるようになるとそれを許可する師匠もあり、オープンリールのレコーダーからカセットテープ、MD、ICレコーダー、ビデオカメラからスマホと記録の仕方も日進月歩です。


Q17 一門ごとの芸の特徴は?

歴代柳家小さんは滑稽噺を得意とし、それらの演目は一門に引き継がれています。
また五代目古今亭志ん生は「火焔太鼓」「風呂敷」「黄金餅」「井戸の茶碗」などの演目に新たな魅力を注ぎ、これらの演目も古今亭の芸として継承されています。
なお、古今亭寿輔、古今亭今輔といった方たちはここでいう「古今亭の芸」の継承者には当たりません。
寿輔一門と志ん生一門の関連は明治時代にまで系図をさかのぼらなければなりません。同じような例として、春風亭柳昇門下の春風亭昇太、春風亭一朝門下の春風亭一之輔の関係もあげられます。
同じ春風亭ですが、その関連も明治時代までさかのぼらないと分かりません。このような例が落語界には多く、桂、柳家、三遊亭という亭号だけで芸風を知ることはできません。
師匠の得意とする演目をその一門が継承する例は上記の他にもあります。
しかし、現在は、各演者が自身の芸の魅力をどん欲に開拓し、師匠から継承した演目だけにとらわれていません。演目、芸風の専売特許といったものは薄れつつあると考えてよいでしょう。


Q18 前座噺とは?

前座の時に落語のリズムにのった口調、声量、上下(かみしも)のつけ方、滑舌の練習のために習う噺を言います。
「子ほめ」「道灌」「たらちね」「つる」「寿限無」「平林」「金明竹」などです。前座の時だけ演じる噺という訳ではなく、二ツ目や真打になっても演じています。
前座噺の特徴は、登場人物が多くなく、口演時間があまり長くありません。
「道灌」「子ほめ」「つる」「金明竹」など、物知りから教わったことをそっくり真似して失敗する『オウム返し』や「寿限無」「たらちね」「金明竹」のように、同じことを繰り返して述べる『言い立て』も特徴としてあげられます。


Q19 上方落語の入込噺(いれこみばなし)とは?

上方では、お客様の入場時ににぎやかな噺を演じる習わしがありました。それを「入込み」、見台を派手にたたくことから「前たたき」といいます。
その時、演じられる噺が入込噺です。見台をリズミカルにたたいて話すことで落語のリズムを体得し、見台の音よりも大声を出せるようにする修業になります。
「東の旅」の「発端」がその代表です。入門者の修行にもなり、東京の前座噺に当たります。また、興行の始まりに旅の噺をするのは『客足がはかどるように』という縁起かつぎでもあります。


Q20 入門時に教わる噺について教えてください。

前座が最初に習う噺が一門によっておおむね決まっていることがあります。
柳家小さん一門、立川談志一門は「道灌」、三遊亭圓生一門は「八九升」、桂三木助一門は「寿限無」、桂米朝一門は「つる」。これらの噺には落語家にとって基礎的な要素が入っています。


Q21 鹿芝居とは?

「鹿芝居」とは、落語家が演じる芝居のことです。噺家(はなしか)の芝居で『鹿芝居』。「忠臣蔵」や「勧進帳」、「与話情浮名横櫛」など、歌舞伎の人気演目がよく演じられます。
歌舞伎が庶民の共通娯楽だった江戸時代から始まり、現在でも様々な形で上演されます。五代目古今亭志ん生や五代目柳家小さん、十代目金原亭馬生など、昭和の名人も鹿芝居に出演しています。
小さんや志ん生は女形を演じていたこともあり、想像するだけでもおかしいですよね。芸人の舞台ですからもちろん面白いことが前提ですが、化粧や衣装はなかなか本格的です。
2008年、春風亭小朝師プロデュースの「大銀座落語祭」で、正蔵師の弁慶、小米朝(現・米團治)師の富樫、いっ平(現・三平)師の義経による「勧進帳」が、歌舞伎もかかる新橋演舞場で上演され、その前代未聞のスケールとなった“鹿芝居”が世間でも話題になりました。


Q22 現在の鹿芝居は?

現在、鹿芝居といえば、まずは落語協会の林家正雀、金原亭馬生両師を中心としたものがあります。こちらは歌舞伎俳優に指導を仰ぎ、時にはゲスト出演もあります。正雀師匠は「竹の家すずめ」の名で自ら脚本まで務めます。ちなみに正雀師匠は女形、馬生師匠は二枚目の役どころです。正雀、馬生両師の鹿芝居は寄席の大喜利としても人気があり、当館でも2003年6月8日に「長谷川伸没後40年祭③鹿芝居「五代目正蔵旅日記~旅の里扶持より」が上演されています。「旅の里扶持」は日ノ出町出身の作家・長谷川伸の作った落語で、林家彦六がよく演じていました。 橘家文蔵師匠は「ボク達の鹿芝居」と称して自ら座長、脚本、演出を務め、後輩の柳家小せん師やロケット団のお二人などを率います。小せん師のおじいさんにロケット団倉本さんのおばあさんなど、ぴったりの配役もみどころの一つです。


Q23 落語と講談の成り立ちには仏教が影響を与えていると言われていますが?

仏教の教えを説くために琵琶法師は平家の栄華と没落を描く軍記物語「平家物語」を語りました。また僧侶は説教の題材として滑稽な話が多数載っている平安、鎌倉時代の説話集「今昔物語集」「宇治拾遺物語」を用いたと考えられています。前者が講談、後者が落語の前身です。⇒戦国時代には大名に書物の講釈や滑稽談を聞かせる御伽衆(おとぎしゅう)に僧侶がなりました。豊臣秀吉の御伽衆、安楽庵策伝は落とし噺の名手として知られ、笑話集「醒睡笑」を著しました。現行の小噺や落語の原話も多数収められ、策伝は「落語の祖」といわれています。御伽衆には軍記読み専門の僧侶もいました。その中には南北朝の争乱などを描く「太平記」を主に読む「太平記読み」もおりました。その代表が赤松法印で、慶長のころ徳川家康に軍記物語「源平盛衰記」や「太平記」を読み聞かせ、「講談師の祖」といわれています。


Q24 人情噺と講談の関係を教えてください。

江戸時代後期には、鳴り物を入れて芝居がかりとなる芝居噺、三味線や鳴り物、歌が入る音曲噺、仕掛けや人形を用いる怪談噺も始まり、落語は隆盛をきわめます。三味線を弾きながら都々逸を歌ったりするなど落語のいろどりとなる演芸である色物も生まれました。さらに幕末から明治にかけて落語家は滑稽噺だけでなく、落ちのない人情噺も演じるようになります。講談の世話物は人情噺に適しており、講談が人情噺に、人情噺が講談にもなりました。また講談師から落語家へ、落語家から講談師へという転身もあり、両者の結びつきは深まりました。


Q25 落語家の写真集にはどのようなものがありますか?

代表的なものとしては1981年に三遊亭圓生の三回忌にあわせて出版された正木信之撮影「六代目三遊亭圓生写真集」です。圓生は高座姿の美しさに定評がありました。それを広く伝えようとする写真集でした。
圓生の仕草の美しさ、巧みさを記録に残そうとする試みはそれより前に出版された「圓生全集」でも行われています。仕草についての詳しい説明とともに若き日の篠山紀信撮影のコマ送りのような高座写真により、圓生の至芸がほうふつとしてきます。
「六代目三遊亭圓生写真集」は様式美から心理描写へと入る圓生の芸を写真と宇野信夫、色川武大、先代円楽、沢村藤十郎、山本進の文章によって解き明かしています。圓生の日常写真もありますが、圓生が撮影を意識して写っていたり、正木カメラマンの演出が施されていると感じてしまったりするものが大半を占めます。そうした手法を取らざるを得なかったところに様式美こそ第一という圓生師匠の本質があったのかも知れません。


Q26 橘蓮二撮影の柳家喬太郎写真集「喬太郎のいる場所」の魅力は?

「喬太郎のいる場所」は喬太郎の落語家生活30周年記念公演「ザ・きょんスズ30」の密着撮影が中心となっています。楽屋でSWAのメンバーが談笑する写真が実に自然体。このような写真が撮れるところが橘氏の魅力です。「撮影します」と一声掛けているのではと感じられるような記念写真のような楽屋風景の写真ではないのです。
「喬太郎のいる場所」は写真撮影のために身構えることのない生き生きとした表情が切り取られているだけでなく、春風亭昇太、三遊亭兼好、玉川奈々福、神田鯉栄などとの座談により、喬太郎の内面に深く迫っています。写真と文章が相乗効果をあげているのも魅力です。


Q27 題名が同じ落語にはどのようなものがありますか?

①「唐茄子屋」⇒勘当された若旦那が義侠心を見せる「唐茄子屋政談」と与太郎がかぼちゃを売り歩く「かぼちゃや」の二つがあります。
②「お七」⇒女の子にお七という名をつけたためにいやがらせを受ける噺と八百屋お七が幽霊になる別名「お七の十」の二つがあります。
③「刀屋」⇒「牡丹燈籠」の発端と「おせつ徳三郎」の後半の二つがあり、内容はまったく異なります。
④「素人鰻」⇒鰻さきの職人が不在の店でただで飲み食いしようとする別名「鰻屋」と酒乱の鰻さき神田川の金に店主が振り回される噺があります。落語には同名の演目がいくつもあります。


Q28 「宿題」という落語は演者によって、内容が異なっているのですが、その理由を教えてください。

字の読み書きができない父親が子供に習字の清書を頼まれて困る「清書無筆」という演目があります。時代に合わないということで、三代目三遊亭金馬は、宿題をしている息子に父親が「何でも答えてやる」と豪語したものの、いいかげんな答えでお茶をにごす「勉強」という噺に変えました。この噺は別題を「宿題」といいます。
四代目柳亭痴楽は子供に宿題を頼まれた父親が困っていたところ、知人が宿題の答えは民謡や浪曲にあると教えくれるという形に変えて「宿題」という題で演じています。
「宿題」は桂三枝の創作にもあります。桂三枝作の「宿題」は息子に塾の宿題を聞かれた父親が会社の部下に答えを教えてもらう噺です。痴楽の「宿題」にも出てくる「宿題は父親が解くものだ」という言葉が出てくるので、関連があるかも知れません。三枝作の特色は実際に解ける難問が扱われている点です。


Q29 【おまけ①】桂三枝作の「宿題」には小学校6年生の算数の文章題が4問あり、2問は落語の中で解かれていますが、あとの2問は答えが出てきません。これを解くことはできますか?

できます。
【問題】兄と弟が同時に家を出て、歩いて駅に向かいました。21分後に弟は兄に105m離されてしまったので1分間に進む距離を20m早くして兄を追ったところ、兄が駅に着いた時、弟は駅の手前60mの所にいました。兄が時速5.1㎞で歩いたとして、家から駅までの距離は何mでしょう?
【答え】兄は時速5.1㎞=時速5100m=5100÷60分=分速85m 21分後、兄は85×21=1785m 弟は1785m-105m=1680m 弟の分速は1680m÷21分=80m 加速後は80m+20m=100m 弟は兄より分速15m速くなった。兄が駅に着いた時、弟は駅の手前60mなので2人の差は60m その前は105mあったので105-60=45 兄と弟の距離は45m縮小。弟が分速15m速くなって45m縮めたので3分かかった。兄は分速85mで21分+3分、85m×24分=2040m これが家から駅までの距離。弟は駅の手前60mで終わったので、2040m-60m=1980m歩いた。初めの21分は分速80mなので1680m、後は分速100mで3分なので300m 合わせて1680m+300m=1980m。計算が正しいと分かります。


Q30 【おまけ②】桂三枝作「宿題」に出てくる算数の文章題、もう一問も解けますか?

【問題】さくらんぼを4人姉妹が四等分したところ、1個余ったので、鳥にやりました。そこにお父さんが帰宅したので、1人分をあげ、残りを四等分し直したら、2個余ったのでまた鳥にやりました。そこにまたお客さんがいらしたので1人分をあげたところ、残りはちょうど四等分できたのですが、1人分ははじめの四等分より10個減りました。1人分は初め何個あったのでしょうか?
【答え】最初の1人分を答えるので、初めに余った1個は関係ありません。四等分した1人分をお父さんにあげたので、残りは3人分。式にすると最初の1人分を□個として、□個×3人分。それを四等分したら2個余ったので、二回目の四等分の数は(□個×3人分-2)÷4です。そこから1人分をあげたので、残りは2回目の四等分の3人分です。式にすると、(□×3-2)÷4×3です。それを4で割った数が3回四等分した数になります。(□×3-2)÷4×3÷4です。式を整理すると、(□×9-2×3)÷(4×4)=(□×9-6)÷16。(□×9-6)÷16が最終的な四等分の数。これが最初の四等分の□より10個少ないので、□-(□×9-6)÷16=10。整理すると(□×16-□×9+6)÷16=10 → □×7+6=10×16 → □×7=160-6 →□=154÷7、つまり22個が最初の四等分です。


3.講談

Q1 「釈台」について教えてください。

講談で使用する台を「釈台」と言います。正しくは「机」と呼ぶのだと言われていますが、実際に「机」という言い方をする方は現在はほとんどいません。
寄席など恒常的に講談の公演があるところには専用の釈台がありますが、通常の会場には常備していません。
そのため、講談師は各自で折り畳み式の釈台を持っており、手製の袋に入れて会場に持参します。市販はなく全てオーダーメイドです。


Q2 修羅場読みとは?

武士の名前や身なり、いくさの場面での軍勢の様子や光景などを、張り扇(はりおうぎ、はりせんとも言う)で調子を取りながら声高らかにリズミカルに朗唱する独特の語り方を「修羅場読み」と言います。講談が元来、男性の話芸であったことと関連しています。
修羅場読みは現在も講談の基本となっており、講談師が最初に覚える演目は軍記物の「三方ヶ原軍記」とされています。この修羅場を読むことで、語る、話す、読む、謡うなどの調子を学び、腹から声を出すことで声を鍛え、観客が聞きやすい声の高さを習得します。
慣れないうちは何を言っているのか分からないのも事実です。まずは音楽だと思って、その調べにひたる気持ちで聴いてみましょう。次第に心地よさが伝わってきます。さらに内容が聞き取れるようになると、情景が鮮やかに描写されていることも分かります。


Q3 講談の「高座」の由来は?

「1.寄席」のQ1で、「高座」という名称は、僧侶が説教をするために座る高い台を「高座」と呼ぶことから来ていますと述べました。ただし、講談の高座の由来には異説もあります。講談は江戸時代半ばまで聴衆と同じ高さで演じられていたのを、湯島天神境内で口演していた講談師伊東燕晋(いとうえんしん)が徳川家康の偉業を語る際に庶民と同じ高さで読むのは恐れ多いと奉行所に願い出て高くしたのが始まりというものです。


Q4 軍談を読むことから始まった講談が現在のようにさまざまな読み物を読むようになったのは?

江戸時代、講談の内容は軍談の他、将軍家や大名家の記録である御記録物、泥棒や名人伝、怪談などの世話物と種類が増えていきます。「天下の御記録読み」という自負を持つ者がいる一方、大衆に親しまれるように面白く、分かりやすく演じる者も現れ、話芸として定着します。


Q5 講談と落語の関連について教えてください。

いくさの史実を脚色することから生まれた講談。笑いを追求する落語。この2つの話芸は、ともに仏教と関連があり、たがいに影響を与えながら発展してきました。両者の交流は現在も続き、三遊亭白鳥の創作落語「任侠 流れの豚次伝」が講談になるという現象も現れています。


Q6 新作講談について教えてください。

講談には史実に基づいた物語だけでなく、世相や社会事象を題材にした新作もあります。浪曲でも有名な「清水次郎長伝」は荒神山の喧嘩に参加した講釈師、松廼家太琉が講談にしたと伝わっています。講談中興の祖、2代目松林伯圓も世間の話題となった事件を講談化して演じました。


Q7 新作講談には政治講談やニュース講談もあるそうですが?

政界の裏話を伝える政治講談で人気があったのが、明治から昭和の講談師で衆議院議員にもなった初代伊藤痴遊(いとうちゆう)。1964年の東京オリンピック開会式の模様を講談で演じて話題となったのが田辺一鶴(たなべいっかく)です。これはニュース講談といえるでしょう。


Q8 女性講談師の新作講談とは?

男性が演じる芸能として生まれた講談ですが、現在は女性講談師が男性より多くなっています。それにともない、女性が主人公という女性演者向けの新作も次々に作られています。物語の舞台は古今東西を問わず、「ジャンヌ・ダルク」「カルメン」などの外国の物語もあります。


Q9 講談にまつわる川柳を教えて。

「講釈師見てきたような嘘をつき」。講談師を茶化した有名な川柳です。講談師に言わせると、虚構や想像ばかりではお客様は興味を持ってくれないので、実地調査をした上で巧みなフィクションを加えるのが大切とか。「講釈師見てきた上で嘘をつき」だそうです。
「講釈師扇で嘘を叩き出し」。講談はジツロクがよいと講談師は言っています。「実録」ではなく「実六」です。事実が六割で嘘が四割。このさじ加減によって虚構をまことしやかに伝えるマジック。そこに講談最大の魅力があるといえます。
「冬は義士夏はお化けで飯を食い」。2代目神田山陽作。吉良邸討ち入りの十二月十五日にあわせて冬は赤穂義士伝、忠臣蔵が人気。夏場は怪談が喜ばれます。実は下の句が「春と秋とは食いっぱぐれ」という狂歌だという説もありますが、現在の講談師は食いっぱぐれはないでしょう。


Q10 講談で歴史ネタの新作を作る時にはルールがあるそうですが?

一龍斎貞水先生によりますと、登場する大名や奉行などの名前と役職名はまったくの架空の名を使うのではなく、実在した方の名を用いるということです。この姿勢には、講談師は「天下の御記録読み」だという気概を感じます。


4.浪曲

Q1 浪曲の三味線は舞台の上手か下手のどちらかで演奏するという決まりはありますか?

浪曲の三味線は舞台の上手で演じるという決まりがあります。寄席のお囃子は舞台の使い勝手で上手にも下手にもなります。
出演者の登場も同様です。浪曲の三味線奏者である曲師は出演者が上手から登場しようと下手から登場しようと必ず上手側にいます。


Q2 浪曲の三味線を衝立で隠すことがあるのはなぜですか?

曲師(浪曲の三味線奏者)は浪曲の伴奏者というわけではなく、力強く弾いたり、間合いを調節したりして、浪曲師を引き立てる役割をしています。そのため、常に浪曲師の方を向いて浪曲師の動きに神経を集中させる必要があるからです。


Q3 テーブル掛けとは何ですか?

浪曲の演台に掛けた布のことです。「ブル掛け」と呼ぶ人もいます。
演台、下手の湯飲み台、背後の椅子の三つに掛ける場合は「三点セット」、広い会場では舞台の左右に松の盆栽を置き、その台にも布を掛けて「五点セット」とします。
一時は舞台背面高くにペナントも飾ったこともあったとか。
浪曲がテーブル掛けで飾り立てる理由は、大流行した時代には劇場だけでなく、民家の大広間、体育館などさまざまな場所で演じられていたからです。
テーブル掛けがあれば、どこでもたちまち舞台としての体裁が整えられます。ちなみに図柄で圧倒的に多かったのは富士山です。


Q4 浪曲の拍子木を打つタイミングについて教えてください。

浪曲師の登場、演目の始まりと終わりに打つのが基本で、「柝(き)を打つ」と言ったりします。
現在は浪曲師の登場に柝を打つのは当たり前になっていますが、1970年代頃までは巡業先などでは柝で登場するのは座長だけ、他の芸人は笛の「ピーッ」という音で登場しました。


Q5 浪花節と浪曲の違いは?

浪花節は明治になって東京で生まれた呼称、表記です。大阪では昭和の初めまで浮かれ節という呼称が一般的でした。
また九州では祭文(さいもん)という名が主流でした。浪曲は大正になって生まれた名といわれています。浪花節と浪曲は広義には同じものです。
現在一般的な、立って演じるスタイルは浪曲という呼称が普及した頃に定着したようです。読み物も浅野内匠頭の仇討ちを家来が行う「義士伝」が最も好まれ、演目も多いです。
こうした立派で堅いイメージを好む人は浪花節ではなく、浪曲という呼び方を大事にしています。
浪曲の新スタイルは桃中軒雲右衛門の台頭が大きな影響を及ぼしています。「雲右衛門以後」という言葉もあるくらいです。この「浪曲」の呼称にこだわったのが松平国十郎先生です。
「雲右衛門以前」の浪花節の時代は釈台を置いて座って演じられていて、泥棒や探偵ものなどの軽妙洒脱な読み物が喜ばれています。小沢昭一さんや新内の岡本文弥師匠は浪花節の名称を好まれました。
この文章の書き手の実体験を申しますと、文弥師匠に「浪曲」と言って「私は雲右衛門は嫌いです」と言われ、国十郎師に「浪花節」と言って「浪曲と言いなさい」と叱られました。


Q6 演歌と浪曲の違いは?

三波春夫、村田英雄、二葉百合子など浪曲出身の演歌歌手は多くいます。また、浪曲の中に演歌が入る歌謡浪曲というものもあります。
しかし、現在の演歌は浪曲から生まれたのではなく、昭和の初めに西洋音楽の勉強をした作曲家や歌手によって生み出されたといわれています。
現在の浪曲師にも演歌を歌う人はおります。ただし、そうした浪曲師のどなたもがおっしゃることが演歌と浪曲は発声法が違うということです。
専門的なことは分かりませんが、演歌を長く歌っていると、浪曲の発声がしにくいとまでおっしゃる浪曲師もいます。


Q7 浪曲の三味線奏者、曲師になるのには?

関東なら日本浪曲協会の三味線教室に通うか、ベテラン曲師に弟子入りするか、二つの方法があります。大阪は曲師への弟子入りしかないようです。
浪曲の三味線は浪曲師が唄いやすいように、一テンポ早く弾き出したり、力強いバチ音をたてたり、腹の底から出す勇ましい掛け声をしたりします。単なる伴奏ではなく、浪曲師との掛け合いで芸を作り上げていきます。浪曲師との呼吸が合うかが求められます。そのため、プロの曲師として独り立ちするには舞台で実際に曲師をつとめるという実地経験が不可欠です。


Q8 合三味線(あいじゃみせん)とは?

特定の演者専属の曲師のことです。かつては浪曲でも契約で専属の曲師となることがありました。合三味線になると、浪曲師から、その浪曲師が使う紋でこしらえた紋付が支給されました。衝立で隠れていても曲師は紋付で演奏したのです。現在、合三味線といえるのは、東家一太郎と東家美、真山隼人と沢村さくらなどです。


Q9 浪曲の三味線の特徴は?

義太夫節や津軽三味線のような太棹(ふとざお)という大きめの三味線を使い、バチは胴をたたくように扱って力強い音を出します。寄席のお囃子で使うのは細棹(ほそざお)です。太棹は細棹と聴き比べると、重厚な音色であることが分かります。


Q10 浪曲番付とは?

浪曲師の人気や実力を相撲の番付にならって、横綱、大関、関脇といった序列をつけて一覧表にしたものです。明治時代から1980年代くらいまで作られていて、広沢虎造や寿々木米若など有名演者の人気や実力の変化が把握できます。ただし、特定の浪曲師の旅興行でお土産用に売られていたものは、当然、その浪曲師を上位の目立つ位置に据えてあります。ですから、人気や実力を厳密に知るための資料にはなりません。それでも、浪曲公演の土産として人気があり、若手浪曲師の小遣い稼ぎになったということです。


Q11 尻三とは?

浪曲で最終の出番の演者の二つ前の出番のこと。尻から三番目だから。浪曲では仲入りの演者を重要視する傾向はあまりない代わり、「尻三」には実力のある演者を出演させます。「小モタレ」とも言います。


Q12 モタレとは?

一番最後に出る「トリ」の演者の一つ前の出演者。トリの演者の邪魔をしない芸が喜ばれます。かつては笑いの多いケレン読みの芸人が出演しました。


Q12 ケレン、ケレン読みとは?

「ケレン」は 歌舞伎や人形浄瑠璃では、早変わり、宙乗りなど奇抜な演出を言いますが、浪曲では笑いの芸を言います。また、笑いのある浪曲を専門に演じる芸人を「ケレン読み」と言います。


5.諸芸

Q1 紙切りとは

お客様の注文を即興で切り抜きます。ハサミと紙だけで多彩な世界を魅せる芸です。藤娘などの日本的なものから、流行りの物事、
アニメのキャラクターなどの注文にも答えます。抽象的な注文にも見事な「形あるもの」に仕上げるのも見どころです。
切り方は、紙の一箇所からハサミを入れ一気に切るのが基本です。たいがいは、ハサミを入れた外側も、中側も注文の作品として完成します。
演者によっては内側をA面、外側をアナザーサイドB面と呼び、外側も内側もお土産でくれることが多いです。
同じ題材なのに趣が異なるのが魅力です。注文だけでなくお客様の似顔絵ならぬ似顔紙切りをしてくれる紙切り芸人もいます。
作品は、注文した人、またはモデルになった人にお土産として渡してくれます。人気公演では、注文する人も多くいますが、寄席で「紙切り」があれば、是非勇気を持って注文してみましょう。


Q2 太神楽と大神楽、表記の違いは?

江戸太神楽と水戸大神楽。どちらも「だいかぐら」と読みます。「だいかぐら」の意味については諸説ありますが、一般的な説は伊勢神宮や熱田神宮に参拝できない人の代わりに神楽を奉納し、お札(ふだ)を配るもので、元の表記は「代神楽」だという説です。参拝者の代わりをつとめるという意味の「代神楽」が江戸では太神楽、水戸では大神楽となりました。「太」や「大」に大きな意味はなく、めでたい文字をつけたのだとも言われています。「伊勢だいかぐら」は「大神楽」とも「太神楽」とも表記されています。


Q3 伊勢太(大)神楽、江戸太神楽、水戸大神楽の違いを教えて。

伊勢太(大)神楽は伊勢神宮に参拝したい人の代わりに神楽を奉納し、伊勢神宮のお札を配ります。江戸太神楽は熱田神宮のお札を配ります。水戸大神楽も江戸太神楽の流れといわれてきましたが、正しくは西宮神社のお札を配っていたことが分かっています。一番福、二番福などの福男を決める正月の開門神事で知られる兵庫県の西宮神社のえびす願人という人たちは全国にえびす信仰を広めていました。水戸大神楽の人々もえびす願人でした。水戸大神楽の演目に「えびす大黒舞」があるのは両者の結びつきを示しているそうです。


Q4 太神楽の芸のレパートリーは?

太神楽は「舞」「曲芸」「話芸」「鳴り物」の四つの要素から成り立っています。「舞」は獅子舞や恵比寿大黒舞など。「曲芸」はバチやマリ、ナイフなどを投げたり、和傘をおでこやあごに立てたり、金輪やマスを和傘の上に乗せて回したりする芸など、おなじみのものです。「話芸」とは掛け合い茶番のことで、滑稽な会話を掛け合いながら『忠臣蔵五段目』などの歌舞伎のパロディーを演じます。「鳴り物」には、祭囃子や下座音楽があり、笛や太鼓、鉦などを演奏します。


Q5 太神楽曲芸について教えて下さい。

太神楽は神事とかかわりがあります。獅子舞や鍾馗舞は悪魔祓い、恵比寿大黒舞は商売繁盛を祈願します。お囃子にも祭りだけでなく葬送の曲もあります。また、曲芸に用いるバチの先端が片側だけ赤いのは御神火を表しています。そのため、赤い部分は絶対に手では握りません。傘の曲芸にも縁起がこめられています。傘は末広がりともいうので子孫繁栄を表します。そしてマリを傘でまわすことによって何事もまるくおさまるように、金輪をまわすことで金回りがよくなるように、一升マスをまわすことで一生益々繁盛をという思いが込められています。


Q6 祝福芸の万歳について教えて下さい。

めでたい言葉を歌って家の繁栄や長寿を祈る万歳(まんざい)は日本各地に広まり、それぞれの地域に根づきました。その代表が三河万歳や尾張万歳です。三河万歳や尾張万歳は2人一組で家々をまわる門付(かどづけ)をしました。語り役の「太夫(たゆう)」が扇を広げて舞いながらめでたい唄を唄い、おどけ役の「才蔵(さいぞう)」が鼓で伴奏し、合間に滑稽な言葉を入れます。ここから笑いに重点を置かれるようになります。「笑う門には福来る」と言われるように神様に笑いを捧げることが福を招くことにつながると考え、笑いの芸に変化します。


Q7 漫才の歴史について教えて下さい。

尾張万歳のレパートリーの一つ、楽器演奏の音曲万歳は小屋掛けの演芸としても演じられるようになります。そこで人気があったのが2代目伊六です。明治から大正にかけて軽口や俄(にわか)の芸を取り入れて伊六万才の名で興行しました。伊六に万才を習ったと言われるのが江州音頭の音頭取りの玉子屋円辰です。円辰は明治後半、大阪千日前で軽口、謎かけ、ものまねなどを取り入れて江州音頭と笑いが一体化した演芸を興行して人気を集めました。これ以降、江州音頭の音頭取りが音頭の間に笑いを取り入れて万才として演じるようになります。大正時代には、どじょうすくいなどの民謡、浪花節、音曲、日本舞踊、芝居、ものまね、奇術など得意な芸に太夫と才蔵の掛け合いの笑いを加えたものを総称して万才と呼ぶようになります。昭和になり、背広を着て会話だけの漫才を演じたのが横山エンタツ・花菱アチャコです。


Q8 太神楽も漫才の歴史に影響を与えているということですが……。

太神楽は太夫と後見のとぼけたやりとりにより、達者な曲芸によって緊迫した空気をなごませました。そこから「掛け合い噺」という大らかな会話で楽しませる芸も生まれました。「掛け合い噺」も漫才の元となり、歌舞伎のパロディである掛け合い茶番はコントに影響を与えています。太神楽の掛け合い噺や掛け合い茶番は曲芸、獅子舞と並ぶ太神楽の出し物であり、太神楽は尾張万歳と同様に本来はさまざまな演目で楽しまる芸能でした。東京には掛け合い噺が根づき、大正時代に関西から進出してきた万才も「掛け合い」と名乗らなければ拒絶されてしまいました。


Q9 万歳は「ばんざい」とも「まんざい」とも読みます。関連がありますか。

祝いや喜びを表す「ばんざい」は万年の長寿を祝うという意味がもととなった言葉です。祝福芸の「まんざい」も長寿を祝います。長寿を強める言葉「千秋万歳(せんしゅうばんざい)」を「せんしゅうまんざい」と読めば万歳芸を表します。「ばんざい」と「まんざい」は関連があります。


Q10 万歳(萬歳)、万才、漫才、いずれも「まんざい」と読みますが、表記の区別を教えてください。

万歳(萬歳)は祝福芸。万才は主に大正時代。民謡、ものまねなどの芸と太夫才蔵の掛け合いをミックスした芸。漫才は昭和8年に吉本興業が作った表記で、現在に至る会話を中心とした笑芸です。


Q11 「音曲」と「三味線漫談」の違いを教えてください。

三味線を弾いて唄ったり、達者なしゃべりで楽しませる芸を総称して「音曲」といいます。演奏よりもしゃべりが多く、笑いもある場合は「三味線漫談」となります。ただし、呼び方は演者の好みによります。「俗曲」「粋曲」「邦楽バラエティー」などさまざまです。玉川スミ師はまさに三味線漫談といえる芸でしたが、ご本人は「俗曲」と名乗っていました。また、男女ともに演じる芸ですが、女性演者の場合、「女道楽」と名乗ることもあります。


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