2.落語Q&A
Q1 落語家とはなし家の違いは?
同じ意味で使う方もいます。しかし「落語家」は落語(落とし噺)を演じる者、「はなし家」には落語以外に人情噺という物語重視の演目も演じる者という意味合いもあり、落語だけにとどまらない話芸に通じているという自負のもとに「はなし家」と名乗る方もいます。
Q2 落語の落ちには面白さが伝わらないものもありますが?
落語の特徴は最後に「落ち」があることです。「落ち」は語呂合わせなどの洒落や機転のきいた言葉で成り立っていますが、時代の変化で意味が分からないものも生まれています。落語家の中には時代に合った落ちを創作している方もいます。
Q3 横浜出身の落語家で有名な方は何人くらいいますか?
近年では、桂歌丸師匠や桂米丸師匠、大正から昭和の初めにかけての人気者には外国人商社で働き、英語が堪能だったので、それを生かした落語を演じた初代柳家三語楼師匠がいます。もちろんこの他にも多数いらっしゃり、簡単に何人とは答えられません。
Q4 「新作落語」と「創作落語」の違いはありますか?
この答えの前に「古典落語」という呼称について考える必要があります。「落語ハンドブック」(三省堂)によりますと、「どこまでが古典で、どこからが新作という線の引き方はできもしないし、適当でもない」と記されています。
そして、古典落語と新作落語をしいて区別するなら、古典落語は「①江戸から明治期ごろに成熟した。②その時期の風俗を背景にする。③多くの場合、作者は不明」とあります。③で「多くの場合」という条件がついているのは、例えば三遊亭圓朝作品は通常、古典として考えられているからでしょう。
新作落語については「①大正期ごろ以降に創作された。②現代風俗が多いが『髷物(まげもの)』もある。③作者がわかっている場合が多い。」となっています。結局、古典落語と新作落語の線引きの定義はあいまいなのです。そして、大正時代のものであっても新作落語と呼ばれています。これについては、決して新しくないではないか、「猫と金魚」などすでに古典と言ってもよいではないか、という意見もあり、創作落語という呼称が生まれました。
要するに、「古典落語」に対するものとして「新作落語」も「創作落語」も使われています。しかし、新しく作られたことに着目すれば「新作」、作者のオリジナル性に着目すれば「創作」という呼称が適切でしょう。あくまで私見ですが。
Q5 根多帳について教えて
自分の持ちネタを一覧できるようにした帳面を言います。立川談志師匠は一時、「談志の米櫃」と表書きした帳面を持ち、高座に上がる前に、どの演目を演じるか思案していました。
また、楽屋に常備して、演じた演目と演者を記す帳面も根多帳と呼んでいます。楽屋の根多帳(楽屋帳とも)は各出演者が演じる演目やテーマなどが重複しないように、出番前の確認として使います。江戸の会計帳簿であった大福帳の帳面を現在も使用しており、墨と筆(筆ペン)で書きます。にぎわい座では根多帳を電子化し、公開中です。電子根多帳は
こちら。
Q6 三題噺とはどのようなものですか?
関連性のない三つの言葉を客席から募り、一席の落語にするものです。「芝浜」などの名作も三題噺と言われています。
現代では、みかん・水たまり・電気というお題から喬太郎の「母恋いくらげ」が生まれました。
創作の現場に立ち会えるのは贅沢な経験ですね。
Q7 こどもも楽しめる落語は?
小さいお子様には、動物の出てくる噺をおススメします。例えば「つる」。鳥の「つる」が、どうしてそう呼ばれるようになったかをめぐるお話。前館長の故・桂歌丸の十八番でもありました。リズミカルで、時間も短め。ご家族でお楽しみいただけます。
「寿限無(じゅげむ)」は落語を聞いたことがない方もご存じかもしれません。「平林(ひらばやし)」もおすすめします。
これらの噺は、言葉の音やリズムを楽しめるので、早口にしてみたり、フレーズとして口ずさんだり、小さいお子様との言葉遊びにもぴったり!
慣れてきたら長い噺も聞いてみましょう。昔の季節の行事を描く「船徳(ふなとく)」。お友達に会えない時には「笠碁(かさご)」。
グリム童話を題材にしたといわれる「死神(しにがみ)」。高学年になったら、「大ネタ」と呼ばれる名作にぜひ触れてみて!
Q8 東京落語と上方落語の違いは?
東京弁と大阪弁、舞台となる場所が主に江戸や東京、主に大阪という違いの他、上方落語は見台、膝隠し、小拍子を使うことがあります。
上方落語は寺社の境内などで演じることが多かったため、見台を小拍子で鳴らして派手に演じ、客の足を止めていました。
このような上方落語の派手な演出は三味線などの鳴り物も多用する陽気な芸風を産みました。
一方、東京落語は主にお座敷で演じられたのでじっくりと物語の内容を聴かせる芸風となり、上方と比べると笑いも少ないものでした。
東京落語の人気者である与太郎は上方落語には出てきません。また甚兵衛は東京落語ではおっとりした人物ですが、上方落語では分別があり、頼られる人物となっています。とぼけた喜六としっかり者の清八コンビの掛け合いの楽しさも上方独自のものです。
Q9 上方落語から移された東京落語
東京落語には上方落語から移された演目が多くあります。いくつかの演目について、東京落語と上方落語の違いをみてみましょう。
まず「愛宕山」。東京落語では東京の人たちが京都の愛宕山に行きます。上方落語は京都の旦那のお供で京都の芸者、大阪の幇間が京都の愛宕山に行きます。
「茶金」は上方落語では「はてなの茶碗」と言います。この題名のまま演じている東京落語の演者もいます。東京落語では江戸の油屋が京都に来ていますが、上方落語では大阪の油屋が京都にいます。
「宿屋の富」は上方落語では「高津の富」です。「高津の富」は大川町の安宿に泊まった男が高津神社で千両富に当たります。この噺が「宿屋の富」となった際、同じような地理を選んで整合性がとられています。馬喰町の宿に泊まった男が椙ノ森(すぎのもり)神社、あるいは湯島天神の富くじで千両当てます。大川町から高津神社、馬喰町から椙ノ森神社や湯島天神。どれもが歩いて行かれる距離になっています。
Q10 大阪人と京都人の気質の違いを描く上方落語
上方落語には大阪人と京都人の気質の違いを描く噺があります。この点も東京落語と大阪落語の違いにあげられます。
上方落語の「愛宕山」「はてなの茶碗」はともに大阪と京都の気質の違いが描かれています。ところがどちらも東京落語として演じる時には、京大阪の気質の違いは描かれていません。
気質の違いそのものがテーマになっているのは上方落語の「京の茶漬け」です。ところがこの落語は東京落語にもなっています。演じたのは六代目三遊亭圓生です。圓生は大阪生まれなので江戸東京の人間は登場させず、大阪人と京都人そのままの設定でやっています。ところが「大阪弁と京都弁の使い分けをするだけでもむずかしい」のであまり演じていないと語っています。「めずらしいというだけの噺です」(圓生全集第二巻)とも述べていますが、上方落語で聴くと楽しいことは確かです。
Q11 落語の「お金」
文(もん)、朱(しゅ)、分(ぶ)、両(りょう)。今とは違う単位でさっぱりわからないのが落語のお金。
簡単に説明しますと4000文=16朱=4分=1両です。「時そば」は16文、1文=20円とすると320円。そうなると少し身近に感じられると思います。
では、1文20円とするならば1両はいくらでしょうか。そうです、8万円です。時代によって違いがあるようですが、1両の価値が今ならだいたい10万円前後とすると目安になると思います。「十両盗めば首が飛ぶ」の十両はおよそ100万ということになります。
「大工調べ」で与太郎が溜めた家賃、1両2分と800(文)は約17万円、「火焔太鼓」の300両は約3000万円、「宿屋の富」で当たった1000両は約1億円という計算になります。正確な計算ではないですが、庶民の金銭感覚から見た大金、といったところでしょうか。
Q12 落語に出てくるお金の重さは?
『小判』というと分厚くてずっしりと重い印象がありませんか?
しかし実際は一枚約18g(500円玉が7.2g)。時代によっては9~13gのものも。
大きさは縦が6~7cmあってかなり薄く、「愛宕山」で土器(かわらけ)代わりに投げたくなる気持ちもわからなくはない?
「宿屋の富」で客が宿屋の主から買った富札が1枚一分。客は袂から一分を取り出し「袂屑かと思った」といいます。
それもそのはず、一分金は約17mm×約10mmと、指先に乗るほど。幕末の万延一分金は7mm×12mm、重さもわずか0.87gと、まさに“小粒”です。
Q13 落語家の扇子
落語の小道具といえば扇子と手拭いですが、その扇子は「高座扇(こうざせん)」という、落語の高座で使うことに特化した扇子です。
普段使いの扇子より中骨が少なく、親骨の先が広くなっているため閉じたときに扇面が隠れ、箸や煙管などに見立てた時も違和感が少ないです。
開け閉めの時にパチパチと音が出やすいものも高座扇ならではですね。大きな舞扇や礼装用の白扇なども音は出ますが、片手で開け閉めが出来、扱いやすいのは小ぶりな高座扇です。上方では通常、白扇を使いますが、近年は東京の高座扇を使っている方もいらっしゃいます。
Q14 現代が舞台の落語でも着物で演じることが多いわけは?
着物は洋服ほど男女差に違いがないこと、体の線がくっきりと表れるので、所作によってさまざまな人物を描き分けるのに適していることが考えられます。観客に自由に想像してもらうには洋服よりも着物の方がよいようです。
Q15 「学生落語」について教えてください。
高校や大学などにある「落語研究会」もアマチュアの集まりである天狗連の一種です。現在、多くの落語家さんが“オチケン”の出身です。
落研にはOBの落語家が教えに来ることもあれば、一門が代々教えているところもあります。
大卒落語家の誕生は近年のことで、かつて落語家の社会的地位はとても低いものでした。
戦後、大学で落語研究会が誕生すると、寄席で芸を磨き上げた名人に教えに来てほしいという申し出に対し、落語家も学生に敬意をもって教えに行き、現在まで続いています。
このような動きに対して、プロには教わらないという学校もあります。
Q16 落語家の稽古方法は?
昔は「三遍稽古」と言って、師匠に三回演じてもらい、それだけで覚えていたというから驚きです。
録音ができるようになるとそれを許可する師匠もあり、オープンリールのレコーダーからカセットテープ、MD、ICレコーダー、ビデオカメラからスマホと記録の仕方も日進月歩です。
Q17 一門ごとの芸の特徴は?
歴代柳家小さんは滑稽噺を得意とし、それらの演目は一門に引き継がれています。
また五代目古今亭志ん生は「火焔太鼓」「風呂敷」「黄金餅」「井戸の茶碗」などの演目に新たな魅力を注ぎ、これらの演目も古今亭の芸として継承されています。
なお、古今亭寿輔、古今亭今輔といった方たちはここでいう「古今亭の芸」の継承者には当たりません。
寿輔一門と志ん生一門の関連は明治時代にまで系図をさかのぼらなければなりません。同じような例として、春風亭柳昇門下の春風亭昇太、春風亭一朝門下の春風亭一之輔の関係もあげられます。
同じ春風亭ですが、その関連も明治時代までさかのぼらないと分かりません。このような例が落語界には多く、桂、柳家、三遊亭という亭号だけで芸風を知ることはできません。
師匠の得意とする演目をその一門が継承する例は上記の他にもあります。
しかし、現在は、各演者が自身の芸の魅力をどん欲に開拓し、師匠から継承した演目だけにとらわれていません。演目、芸風の専売特許といったものは薄れつつあると考えてよいでしょう。
Q18 前座噺とは?
前座の時に落語のリズムにのった口調、声量、上下(かみしも)のつけ方、滑舌の練習のために習う噺を言います。
「子ほめ」「道灌」「たらちね」「つる」「寿限無」「平林」「金明竹」などです。前座の時だけ演じる噺という訳ではなく、二ツ目や真打になっても演じています。
前座噺の特徴は、登場人物が多くなく、口演時間があまり長くありません。
「道灌」「子ほめ」「つる」「金明竹」など、物知りから教わったことをそっくり真似して失敗する『オウム返し』や「寿限無」「たらちね」「金明竹」のように、同じことを繰り返して述べる『言い立て』も特徴としてあげられます。
Q19 上方落語の入込噺(いれこみばなし)とは?
上方では、お客様の入場時ににぎやかな噺を演じる習わしがありました。それを「入込み」、見台を派手にたたくことから「前たたき」といいます。
その時、演じられる噺が入込噺です。見台をリズミカルにたたいて話すことで落語のリズムを体得し、見台の音よりも大声を出せるようにする修業になります。
「東の旅」の「発端」がその代表です。入門者の修行にもなり、東京の前座噺に当たります。また、興行の始まりに旅の噺をするのは『客足がはかどるように』という縁起かつぎでもあります。
Q20 入門時に教わる噺について教えてください。
前座が最初に習う噺が一門によっておおむね決まっていることがあります。
柳家小さん一門、立川談志一門は「道灌」、三遊亭圓生一門は「八九升」、桂三木助一門は「寿限無」、桂米朝一門は「つる」。これらの噺には落語家にとって基礎的な要素が入っています。
Q21 鹿芝居とは?
「鹿芝居」とは、落語家が演じる芝居のことです。噺家(はなしか)の芝居で『鹿芝居』。「忠臣蔵」や「勧進帳」、「与話情浮名横櫛」など、歌舞伎の人気演目がよく演じられます。
歌舞伎が庶民の共通娯楽だった江戸時代から始まり、現在でも様々な形で上演されます。五代目古今亭志ん生や五代目柳家小さん、十代目金原亭馬生など、昭和の名人も鹿芝居に出演しています。
小さんや志ん生は女形を演じていたこともあり、想像するだけでもおかしいですよね。芸人の舞台ですからもちろん面白いことが前提ですが、化粧や衣装はなかなか本格的です。
2008年、春風亭小朝師プロデュースの「大銀座落語祭」で、正蔵師の弁慶、小米朝(現・米團治)師の富樫、いっ平(現・三平)師の義経による「勧進帳」が、歌舞伎もかかる新橋演舞場で上演され、その前代未聞のスケールとなった“鹿芝居”が世間でも話題になりました。
Q22 現在の鹿芝居は?
現在、鹿芝居といえば、まずは落語協会の林家正雀、金原亭馬生両師を中心としたものがあります。こちらは歌舞伎俳優に指導を仰ぎ、時にはゲスト出演もあります。正雀師匠は「竹の家すずめ」の名で自ら脚本まで務めます。ちなみに正雀師匠は女形、馬生師匠は二枚目の役どころです。正雀、馬生両師の鹿芝居は寄席の大喜利としても人気があり、当館でも2003年6月8日に「長谷川伸没後40年祭③鹿芝居「五代目正蔵旅日記~旅の里扶持より」が上演されています。「旅の里扶持」は日ノ出町出身の作家・長谷川伸の作った落語で、林家彦六がよく演じていました。 橘家文蔵師匠は「ボク達の鹿芝居」と称して自ら座長、脚本、演出を務め、後輩の柳家小せん師やロケット団のお二人などを率います。小せん師のおじいさんにロケット団倉本さんのおばあさんなど、ぴったりの配役もみどころの一つです。
Q23 落語と講談の成り立ちには仏教が影響を与えていると言われていますが?
仏教の教えを説くために琵琶法師は平家の栄華と没落を描く軍記物語「平家物語」を語りました。また僧侶は説教の題材として滑稽な話が多数載っている平安、鎌倉時代の説話集「今昔物語集」「宇治拾遺物語」を用いたと考えられています。前者が講談、後者が落語の前身です。⇒戦国時代には大名に書物の講釈や滑稽談を聞かせる御伽衆(おとぎしゅう)に僧侶がなりました。豊臣秀吉の御伽衆、安楽庵策伝は落とし噺の名手として知られ、笑話集「醒睡笑」を著しました。現行の小噺や落語の原話も多数収められ、策伝は「落語の祖」といわれています。御伽衆には軍記読み専門の僧侶もいました。その中には南北朝の争乱などを描く「太平記」を主に読む「太平記読み」もおりました。その代表が赤松法印で、慶長のころ徳川家康に軍記物語「源平盛衰記」や「太平記」を読み聞かせ、「講談師の祖」といわれています。
Q24 人情噺と講談の関係を教えてください。
江戸時代後期には、鳴り物を入れて芝居がかりとなる芝居噺、三味線や鳴り物、歌が入る音曲噺、仕掛けや人形を用いる怪談噺も始まり、落語は隆盛をきわめます。三味線を弾きながら都々逸を歌ったりするなど落語のいろどりとなる演芸である色物も生まれました。さらに幕末から明治にかけて落語家は滑稽噺だけでなく、落ちのない人情噺も演じるようになります。講談の世話物は人情噺に適しており、講談が人情噺に、人情噺が講談にもなりました。また講談師から落語家へ、落語家から講談師へという転身もあり、両者の結びつきは深まりました。
Q25 落語家の写真集にはどのようなものがありますか?
代表的なものとしては1981年に三遊亭圓生の三回忌にあわせて出版された正木信之撮影「六代目三遊亭圓生写真集」です。圓生は高座姿の美しさに定評がありました。それを広く伝えようとする写真集でした。
圓生の仕草の美しさ、巧みさを記録に残そうとする試みはそれより前に出版された「圓生全集」でも行われています。仕草についての詳しい説明とともに若き日の篠山紀信撮影のコマ送りのような高座写真により、圓生の至芸がほうふつとしてきます。
「六代目三遊亭圓生写真集」は様式美から心理描写へと入る圓生の芸を写真と宇野信夫、色川武大、先代円楽、沢村藤十郎、山本進の文章によって解き明かしています。圓生の日常写真もありますが、圓生が撮影を意識して写っていたり、正木カメラマンの演出が施されていると感じてしまったりするものが大半を占めます。そうした手法を取らざるを得なかったところに様式美こそ第一という圓生師匠の本質があったのかも知れません。
Q26 橘蓮二撮影の柳家喬太郎写真集「喬太郎のいる場所」の魅力は?
「喬太郎のいる場所」は喬太郎の落語家生活30周年記念公演「ザ・きょんスズ30」の密着撮影が中心となっています。楽屋でSWAのメンバーが談笑する写真が実に自然体。このような写真が撮れるところが橘氏の魅力です。「撮影します」と一声掛けているのではと感じられるような記念写真のような楽屋風景の写真ではないのです。
「喬太郎のいる場所」は写真撮影のために身構えることのない生き生きとした表情が切り取られているだけでなく、春風亭昇太、三遊亭兼好、玉川奈々福、神田鯉栄などとの座談により、喬太郎の内面に深く迫っています。写真と文章が相乗効果をあげているのも魅力です。
Q27 題名が同じ落語にはどのようなものがありますか?
①「唐茄子屋」⇒勘当された若旦那が義侠心を見せる「唐茄子屋政談」と与太郎がかぼちゃを売り歩く「かぼちゃや」の二つがあります。
②「お七」⇒女の子にお七という名をつけたためにいやがらせを受ける噺と八百屋お七が幽霊になる別名「お七の十」の二つがあります。
③「刀屋」⇒「牡丹燈籠」の発端と「おせつ徳三郎」の後半の二つがあり、内容はまったく異なります。
④「素人鰻」⇒鰻さきの職人が不在の店でただで飲み食いしようとする別名「鰻屋」と酒乱の鰻さき神田川の金に店主が振り回される噺があります。落語には同名の演目がいくつもあります。
Q28 「宿題」という落語は演者によって、内容が異なっているのですが、その理由を教えてください。
字の読み書きができない父親が子供に習字の清書を頼まれて困る「清書無筆」という演目があります。時代に合わないということで、三代目三遊亭金馬は、宿題をしている息子に父親が「何でも答えてやる」と豪語したものの、いいかげんな答えでお茶をにごす「勉強」という噺に変えました。この噺は別題を「宿題」といいます。
四代目柳亭痴楽は子供に宿題を頼まれた父親が困っていたところ、知人が宿題の答えは民謡や浪曲にあると教えくれるという形に変えて「宿題」という題で演じています。
「宿題」は桂三枝の創作にもあります。桂三枝作の「宿題」は息子に塾の宿題を聞かれた父親が会社の部下に答えを教えてもらう噺です。痴楽の「宿題」にも出てくる「宿題は父親が解くものだ」という言葉が出てくるので、関連があるかも知れません。三枝作の特色は実際に解ける難問が扱われている点です。
Q29 【おまけ①】桂三枝作の「宿題」には小学校6年生の算数の文章題が4問あり、2問は落語の中で解かれていますが、あとの2問は答えが出てきません。これを解くことはできますか?
できます。
【問題】兄と弟が同時に家を出て、歩いて駅に向かいました。21分後に弟は兄に105m離されてしまったので1分間に進む距離を20m早くして兄を追ったところ、兄が駅に着いた時、弟は駅の手前60mの所にいました。兄が時速5.1㎞で歩いたとして、家から駅までの距離は何mでしょう?
【答え】兄は時速5.1㎞=時速5100m=5100÷60分=分速85m 21分後、兄は85×21=1785m 弟は1785m-105m=1680m 弟の分速は1680m÷21分=80m 加速後は80m+20m=100m 弟は兄より分速15m速くなった。兄が駅に着いた時、弟は駅の手前60mなので2人の差は60m その前は105mあったので105-60=45 兄と弟の距離は45m縮小。弟が分速15m速くなって45m縮めたので3分かかった。兄は分速85mで21分+3分、85m×24分=2040m これが家から駅までの距離。弟は駅の手前60mで終わったので、2040m-60m=1980m歩いた。初めの21分は分速80mなので1680m、後は分速100mで3分なので300m 合わせて1680m+300m=1980m。計算が正しいと分かります。
Q30 【おまけ②】桂三枝作「宿題」に出てくる算数の文章題、もう一問も解けますか?
【問題】さくらんぼを4人姉妹が四等分したところ、1個余ったので、鳥にやりました。そこにお父さんが帰宅したので、1人分をあげ、残りを四等分し直したら、2個余ったのでまた鳥にやりました。そこにまたお客さんがいらしたので1人分をあげたところ、残りはちょうど四等分できたのですが、1人分ははじめの四等分より10個減りました。1人分は初め何個あったのでしょうか?
【答え】最初の1人分を答えるので、初めに余った1個は関係ありません。四等分した1人分をお父さんにあげたので、残りは3人分。式にすると最初の1人分を□個として、□個×3人分。それを四等分したら2個余ったので、二回目の四等分の数は(□個×3人分-2)÷4です。そこから1人分をあげたので、残りは2回目の四等分の3人分です。式にすると、(□×3-2)÷4×3です。それを4で割った数が3回四等分した数になります。(□×3-2)÷4×3÷4です。式を整理すると、(□×9-2×3)÷(4×4)=(□×9-6)÷16。(□×9-6)÷16が最終的な四等分の数。これが最初の四等分の□より10個少ないので、□-(□×9-6)÷16=10。整理すると(□×16-□×9+6)÷16=10 → □×7+6=10×16 → □×7=160-6 →□=154÷7、つまり22個が最初の四等分です。
Q31 羽織の役目について教えて下さい。
高座に上がるときには羽織を着ていますが、脱ぐタイミングは噺の“まくら”が終わり本題に入るときとされています。また、次の演者が来ていないとき、脱いだ羽織を舞台袖に投げ、来たら前座さんが羽織を引くという合図がありますが、近年はあまり使われていないそうです。また、変わった使用法もあります。落語を一席終えた後、余芸で踊りや玉すだれなどを披露することがあります。五代目柳家小さんは「百面相」と称して七福神などを演じる際に羽織を裏返しに着て変装したりしていました。現在では金原亭馬の助が寄席で演じて評判を得ています。
Q32 人物の演じ分けの際、上下(かみしも)を切るとはどのようなことですか。
落語の特色の一つに、顔を左右に向けて人物の演じ分けをする手法があります。これは「上下(かみしも)を切る」と言われ、右と左にも意味があります。舞台は客席から見て右を上手(かみて)、左を下手(しもて)と呼びます。歌舞伎の舞台で考えるとわかりやすいです。歌舞伎では左に花道があり、舞台にある家は入口が左に、部屋の奥にあたる上座(かみざ)が右に配されます。落語もそれに倣い、目上の人や外から家の中に向かって話すときは右つまり上手(かみて)を向き、下座(しもざ)に居る目下の人や屋外に話すときは下手を向くのです。ちなみに上下を切った目線の先はどこなのでしょうか。個人差はありますが、広すぎず狭すぎず、客席後方の角あたりに向けていることが多いようです。目が合うと恥ずかしいとお席を避ける方もいらっしゃるようですが、高座からはお顔までは分からないので安心してお楽しみください。
Q33 落語界の身分制度について教えて下さい①→「見習い」
東京の落語家は入門すると「見習い」から始まり「前座」「二ツ目(ふたつめ)」と昇進してゆき、その最高峰が「真打(しんうち)」です。入門の時期や前座の人数の都合などで見習いを経ずに前座になる場合もあれば、逆になかなか前座に上がれないこともあります。
「見習い」は師匠の荷物持ちなどをしますが、楽屋に入ることは許されません。落語家としての名前を貰い楽屋入りが許されると前座修行がスタートします。寄席の楽屋の仕事や師匠の身の回りの手伝いなど。もちろん稽古もたくさんします。「開口一番」は前座の口演です。
Q34 落語界の身分制度について教えて下さい②→「前座」
前座修行中に覚えることはたくさんあります。高座の転換やお囃子の太鼓、番組の進行管理もつとめます。自分の師匠以外の先輩のお世話もするため、着物のたたみ方やお茶の入れ方などの好みも覚えなくてはなりません。3年から5年の前座修行を経て二ツ目に昇進します。
Q35 落語界の身分制度について教えて下さい③→「二ツ目」
前座から二ツ目に昇進すると一人前の噺家として認められるようになります。紋付羽織を着ることが許され、それぞれに専用の出囃子を持ちます。前座修行が終わるのは真打昇進より嬉しかったと話す人も多いほどで、前座修行がいかに大変だったのかがうかがい知れます。
Q36 落語界の身分制度について教えて下さい④→「真打」
二ツ目になって10年ほど経つと、ついに真打昇進となります。通例は年功序列ですが、ごくまれに抜擢もあります。真打になると「師匠」と呼ばれ、弟子を取ることができます。寄席などで披露興行を行い、贔屓のお客様などを招いて盛大な披露宴も開かれます。
Q37 落語界の身分制度について教えて下さい⑤→上方落語の場合
上方落語では明確な身分制度はありませんが、楽屋仕事などは修行年数が浅い者が行います。上方特有の「ハメモノ」(演者の口演を助ける音の演出)があるため、太鼓や笛が達者な若手も多いです。高座返しは寄席の女性従業員「お茶子さん」が和服に前掛け姿でします。