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第5回.歌丸改名

 

金語楼先生と柳橋先生
 今輔一門が新作中心なのは有崎勉(ありさきつとむ)の名で新作落語を書いていた柳家金語楼の影響が大きい。金語楼は6代目春風亭柳橋とともに日本芸術協会を設立した人物だ。芸協会員は敬意を込めて金語楼先生、柳橋先生と呼ぶ。
 金語楼は年に一度、人形町末廣で独演会を行っていたことがある。米坊も、その日の高座用に金語楼が書いた台本を稽古して演じた。しかし、クスッとも受けない。
 金語楼は当日早く末廣亭に入り、その日演じる原稿を書いていた。これがとてもよく受ける。さらに米坊たちが演じても受けない台本を金語楼が演じると驚くほどよく受ける。驚くとともに感心するしかなかった。
柳橋は長年にわたり協会会長を務めていて、不平を口にする人に対しては「嫌なら協会をやめてくれ」と言うのが口癖だった。後年、会長を務めていた今輔が亡くなった時、柳橋の一存で米丸が次期会長となったが、反対する人は現れなかった。柳橋は芸も見事で、二十代からずっと売れっ子だった。
 
 30分のネタを20分に縮め、20分を倍に延ばす。奔放なようで、噺に一つのムダもない。『火事息子』の品格と温かさが、今も忘れられません。(『歌丸 不死鳥ひとり語り』)
 
 この2人と今輔は生涯の恩人であった。金語楼は落語のネタを、柳橋からは芸を、今輔からは人間としての生き方そのものを学んだ。
 

 
歌丸改名
 米坊で2年半ほど活動しているうちに新宿末広亭の支配人から改名を勧められた。「米坊はあまりにも子供っぽ過ぎるんじゃないか」という理由だった。米丸に「歌丸」という名をつけてもらい、1964年(昭和39年)一月下席から、二ツ目のまま歌丸となった。昇進したわけではないので、披露も、手拭を配ることもなかった。
 改名して1年後、日本テレビで「金曜夜席(よせ)」という番組が始まった。当時はプロレスが大人気で、金曜の夜には隔週でジャイアント馬場などの試合中継があった。中継のない週に演芸番組をやろうという企画が持ち上がり、立川談志がかかわった。歌丸が寄席の若手大喜利に出ていることを知った談志が番組のオーディションに声を掛けてくれた。落語家ばかりが呼ばれ、落語以外の裏芸をやってくれと注文された。踊りや歌はだれでもやろうとする。みんなと同じじゃつまらないと歌丸は一計を案じた。
 
 紋付羽織袴で高座に上がって、お辞儀をしたあとはひと言も口きかない。そこへ、前座がもりソバを運んでくるんです。それをまた何も言わずに黙々と食べます。食べ終わったら、今度は手ぬぐいでそろりと口のまわりを拭いて、その手ぬぐいをゆっくりと懐へしまう。そうしてひと言「おソバつさまでした」と言って、高座をおりたんです。
 これがね、バカ受けしたんです。談志さんにも受けてましたね。実はこれ、大昔に徳川夢声先生(活動写真の弁士)が東宝名人会でやったネタなんです。それを覚えていたんですが、夢声先生はしゃべりながらソバを食べてらした。それをわたしはサゲ(オチ)まで黙っていることにして、そのオーディションでぶっつけ本番でやったんです。
(『座布団一枚! 桂歌丸のわが落語人生』)

 
 こうして歌丸は初めてのテレビレギュラーの座をつかんだ。他の出演は立川談志、先代三遊亭圓楽など。若手による言いたい放題の大喜利が評判となって番組は一年半続いた。1966年(昭和41年)5月からは日曜夕方に移り、「笑点」が始まった。開始時のメンバーは談志、圓楽、歌丸の他、柳亭小痴楽(後の春風亭梅橋)、三遊亭金遊(後の三遊亭小円遊)である。 
 
立川談志と「笑点」
 開始直後の「笑点」は談志好みのブラックユーモアが中心となった内容だった。そのため、マスコミ関係者には好評だったが、一般の視聴者には受け入れてもらえず、視聴率が取れなかった。
 
 談志さんとしてもイライラが募ったんでしょう。いつしか、われわれ解答者とぶつかるようになったんです。それで、いろいろあった末に、局の方に、談志さんを取るか、われわれ解答者を取るかと膝詰め談判しました。そしたら、当然といえば当然ですけど、談志さんを選ばれた。だから、われわれ解答者は、番組をいったん降りたんです。
 そこで、談志さんは新たに若手メンバーを選んで、番組を続行させたわけです。ところが、われわれがいたころはどうにかふた桁取っていた視聴率が、新メンバーになったらひと桁に落っこっちゃった。それで、慌てた局の方が「戻ってくれないか」って、元のメンバー個々に打診をしてきたんです。そのときにわれわれも条件を出して、談志さんは司会を降りることになりました。(『座布団一枚! 桂歌丸のわが落語人生』)

 
 司会は放送作家の前田武彦に替わったが、落語家の洒落が通じないところがあった。結局、一年程で、てんぷくトリオの三波伸介と交替した。三波は落語にも造詣が深く、落語家の呼吸や間(ま)を心得ており、歌丸ら解答者たちもやりやすかった。「笑点」の歴代最高視聴率40.5%は三波が司会をしていた1973年(昭和48年)に樹立したものだ。

 

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