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第4回.浪人生活

 

浪人生活
 子供も生まれたのに、食べるあてがなくなっていた。仕方なく日ノ出町駅前にある化粧品の営業所に夫婦そろって「働かせてください」と頼み込んだところ、あっさりと勤めさせてくれた。しかし、化粧品のセールスもしゃべる商売だからお手のものだと思ったのが大間違い。洗顔クリームとポマードの区別がつかず、間違えて売ることもたびたびだった。営業所にはどれほど苦情の電話がかかってきたことか。妻の富士子は今児よりはるかに成績が良かったが、歩合だったので、生活は苦しかった。富士子はマッチ箱のラベル貼りやスカーフの端かがりの内職もした。今児はセールスの仕事を1年ほどでやめ、メッキ工場に勤めることに。ところが朝の8時から夜の9時、10時までという重労働で、すぐに音を上げてしまった。富士子の父親の蒔絵の仕事を手伝ったりして、どうにかこうにか食いつないだ浪人生活は2年半にわたった。
 その間、義父や義兄に、今輔師匠に詫びに行こうと何度も言われ、実際に師匠宅に行きかけたこともあったが、近くまで来ると、足が前に進まず、結局、途中で逃げ帰ってしまった。

 
再出発
 復帰のきっかけをつけてくれたのは橘ノ圓だった。「今輔師匠が会いたがっているよ」という手紙を今児に寄越した。同時に今輔にも「今児が会いたがっています」と持ち掛けた。この取り持ちが功を奏し、謝りに来たいのなら来るようにということになり、兄弟子の米丸に連れられて、妻と幼かった長女を連れて詫びに行った。
 
 師匠はほとんど口を開きません。そのかわり、おかみさんには、こっぴどく叱られました。
親の縁が薄いあたしは、おかみさんが母親のように思えて、ずいぶんと甘えていました。家族同然の弟子に  裏切られたんだから、怒るのも当然ですよ。「一度飛び出したもんを、またうちに入れるわけにはいきません。米丸さんのところへ行きなさい」元の鞘(さや)に収まっても、負い目があるから居にくいだろう……。今輔師匠らしい人情采配です。(『歌丸 不死鳥ひとり語り』)

 
 米丸から「桂米坊(かつらよねぼう)」という名前をもらい、1961年(昭和36年)4月より寄席に復帰することができた。

 

心機一転
 米丸は米坊に寄席の初日(一日目)と中日(なかび。五日目)には今輔宅に顔を出すよう命じた。心を改めた米坊は教えを守った。また、寄席では二ツ目は自分の高座が終わると帰るのが普通だが、用事がない限り終演まで残り、鳴り物などの手伝いをした。川崎演芸場で二代目桂枝太郎がトリをとった時も残っていると「俺の弟子は帰ってしまったのに、残ってくれてありがとう」と小遣いをもらった。
 寄席の出演料であるワリは現在、協会事務局が取りまとめをして出演者に配分しているが、当時はトリの芸人がそれを行った。枝太郎がトリの時、ワリの袋に2日分として1300円入っていた。通常は300円くらいなので、明らかに1000円多い。そこで枝太郎に調べ直してもらうように袋を差し出したところ、「ここに入っていたのか。アハハ、入れたもんはしょうがない」と笑ってそのまま1000円をくれた。米坊の正直な心根を知った枝太郎はいっそう米坊をかわいがった。
 ラジオのレギュラー番組を十数本持っていた米丸の座付き作家のような役割を果たすようにもなる。月曜から金曜までの5分間の帯番組があり、原稿用紙2枚くらいのコント風の小咄が毎週5本必要だった。その原稿を米坊が書いた。勉強にもなったし、米丸から原稿料をもらうこともできた。
 米坊になってからは寄席の10日のうち、8日くらいは新作落語を演じ、1日か2日だけ古典落語を演じるというようになっていた。しかし古典をもっと演じていきたいという気持ちは強かった。

 

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