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横浜にぎわい座は、落語、漫才、大道芸などの大衆芸能の専門館です。

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第3回.二ツ目昇進と結婚

 

前座経験
 当時は前座が足らず、今児は所属ではない落語協会の寄席にも頼まれて出かけた。普段聴く機会のない師匠の噺に触れられるのは勉強になった。
 驚かされることもあった。神田の立花演芸場で行われた古今亭志ん生独演会に、いつまで経っても志ん生が来ない。不安に思っていたら、桂文楽が現れ、「志ん生が酒飲んでどこか行っちゃったんで、わたしが代演だ」と言う。自分の独演会に出演しなくても許されたのだからすごい時代というか、すごい師匠方であった。
 うれしい思い出もある。米丸が人形町末広のトリを取った時のことだ。神奈川県民の出演者が4人そろった。米丸は弘明寺、三遊亭右女助が逗子、四代目春風亭柳好が二俣川、今児が真金町。4人が終演後、毎日、人形町から神田駅まで、芸の話をしたり、小噺や謎かけを作ったりしながら歩いた。前座の今児には途中でラーメンをおごってもらえる楽しみもあった。
 

 
祖母の他界
 タネは今児が前座となって一年目の1953年(昭和28年)4月22日に他界した。「富士楼」はすでに店をたたんでおり、当時のタネは今児の帰宅が深夜になっても夕飯の支度をして起きて待っていてくれて、「私がいなくなるとかわいそうだ」と最期まで孫の心配をしていた。葬式には今輔も参列してくれた。家族を失った今児には芸道修業に励むことしか残された道はなかった。
 

二ツ目昇進と結婚
 1954年(昭和29年)11月、前座を二年半つとめて二ツ目に昇進した。しばらくして今輔との仲がおかしくなってしまった。次第に落語家の数がふえてきて、なりたての二ツ目にはなかなか高座の出番がない。そのような境遇の者5、6人で協会を飛び出し、新しいグループを旗揚げしようという話が持ち上がった。しかし実際に行動したのは今児だけ。他の連中は寝返ってしまい、今児ひとりが悪者になった。祖母を亡くし、ひとりぼっちになった寂しさもあり、遊び癖もついた。行くのは地元の真金町や曙町、古くからいるおばさんたちに富士楼の巌ちゃんだとちやほやされ、金が入ると遊びに行き、電気も水道も止められるという生活も体験した。それが今輔の耳に入り、怠けてダラダラしていてはという心配から縁談を頂いた。しかし、気に入らない相手だったので「もう結婚相手がいます」と言ってしまい、あわてて隣のおばさんに相談したところ、おばさんの遠い親戚の娘を紹介された。といっても、住んでいたのは今児の家の斜め向かいだった。4人兄妹の末娘で、名前は富士子、父親は蒔絵師(まきえし)をしていた。近所なので今児の生活ぶりも知り尽くしており、ずいぶん反対したのではないかと思われるが、とんとん拍子に話はまとまった。1957年(昭和32年)、21歳の時だった。今輔は勧めた相手を断られて気分を害していただろうが、結婚式に列席してくれた。自宅で三々九度をやり、近所のふぐ料理屋で披露宴、新婚旅行は伊豆の修善寺だった。
 
師匠に盾突く
 今輔との関係はさまざまな要因が積もり積もって悪化するばかりだった。新作を売り物にしている今輔の弟子でありながら、今児は今輔から教わった新作よりも、古典を中心に演じていた。今輔は新作といえども土台は古典だと言い、今児に古典もずいぶん教えてくれていた。だから問題ないだろうと思っていたら、「古典がいいなら古典のところへ世話しますよ」と言われてしまった。「すみません」と答えたものの、反抗心は以前にも増して大きくなった。
 1958年(昭和33年)秋、横浜駅西口にあった相鉄演芸場に出演が決まった。久々の寄席だったので、心を入れ替える気で初日に出かけてみると、出番がなくなっていた。今輔が「こんなヤツはいりません」と協会に断りを入れたのだろう。完全にしくじった思い、寄席にも今輔宅にも行かなくなった。
 今輔から名前を取り上げられて、破門を言い渡されたわけではなかった。古今亭今児の名があれば地方回りをしてでも食べていけるだろうという親心によるものだった。今輔のそうした配慮も理解できなかった今児は不信感をつのらせてばかりいた。
 

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