連続ネタ
福太郎は勉強会で連続ネタに挑戦し続けた。
「権次」の次は「大瀬半五郎」「祐天吉松」という具合に連続ネタを次々にかけていったんです。浪曲がぐっと好きになったのは、この頃からです。すべては談志師匠のアドバイスから始まっているんです。(「月刊浪曲」186号 1997年10月号「玉川福太郎が浪曲生活30周年」)
しかし、師匠、勝太郎には、連続ものを覚えても演じる場がないこと、寄席芸を演じていては芸が小さくなることなどから、大反対を受けた。確かに「青龍刀権次」を手掛け始めてからの忠士は腹の底から力強く張り上げる「筒一杯の大声」を出すことが減り、その声に関東節としての魅力を感じていたファンの失望を生むことにもなっていく。また、「青龍刀権次」は華柳丸がネタ元だが、「祐天吉松」と「大瀬半五郎」は二代目広沢虎造であり、ネタ下ろしの時点ではネタ元の演者そのままの節や啖呵になってしまう傾向もあった。
よく「あれは華柳丸節だ」「虎造のマネだ」「国友節だ」っていわれますが、あんまり気にしてません。いつか「オッ、福太郎節だねえ」っていわれるようにしてみせます。(「月刊浪曲」10号 1983年2月号「浪曲の今日明日を語る」)
心を強く持ち、あくまでも前向きに突き進んでいく。
二代目福太郎襲名
勝太郎は自分の考えに従わない忠士に困惑しながらも、行く末を楽しみにもしていた。忠士が勉強会を始めた年である1975年(昭和50年)の6月11~13日には、浅草国際劇場の浪曲大会で二代目福太郎襲名披露が行われている。忠士は古賀政男のもとで歌謡曲を勉強し、デビューを目指していたが、歌手としては「忠士」よりも師匠、勝太郎の前名「福太郎」の方がピッタリだといわれる。勝太郎に願い出たところ、快く襲名を許された。披露口上には初代東家浦太郎、四代目天中軒雲月、三代目広沢虎造、三代目玉川勝太郎、木村若衛という大家が並び、二代目福太郎は看板演者の仲間入りを果たす。
三味線教室
「浪曲ファン」56号(昭和51年11月号)の「夫婦三味線」という記事に玉川福太郎・佐藤みね子夫妻が紹介されている。
「佐藤みね子さんは昨年暮れ玉川福太郎と結婚した。まだ新婚の初々しい香りがアパートにいっぱい漂っている。そこで浪曲のキッカケから弾いている。そばに福太郎がこわい顔をして自ら語って聞かせる。みね子さんの見事な両膝に乗った三味線がこわごわ音を出している」「女房になって、自分もいつかは三味線を弾かなくてはと思っていた。そんな時、芝清之氏が大西信行氏(劇作家)のすすめと呼びかけで、三味線教室を始めた。渡りに舟、みね子さんも参加した。三味線は四代目東家三楽の女房が譲ってくれたものである。
生まれて初めて持つ三味線、ポツンポツンと始めて半年、それでも曲がりなりにも弾けるようになった。ほかの生徒と違って、旦那というけいこ台があるから、やはり進歩は早い。しかしタイプの仕事を持っているので、けいこは木馬で週二度、旦那相手が一日置き。仕事をやめたら本格的にやるつもりだ。
そのみね子さん、浪曲を聞いたのは木馬が最初だった。何人か聞いてすっかりあきてしまったそうだ。その浪曲の、その三味線を弾く羽目になったのだから、本当に運命とはおかしなもの。
『今、曲師は足りないし、いる人も老人。先行き不安です。いっそギターでも、と考えていたんです』という福太郎。いい嫁さんを貰ったものである。初舞台の日、めくりに玉川みね子と出るのだろうか」
福太郎の父親は山形から出てきて石屋を商売とし、そこにみね子も出稼ぎにきていた。雪国の女性は男性同様、冬の農閑期には出稼ぎをして力仕事もこなす。みね子も石を運ぶ手伝いをした。その仕事仲間と木馬亭で忠士の舞台を見たのが縁で交際が始まり、福太郎襲名を機に結婚した。
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