入門許可
浅草国際劇場の浪曲大会は三日間の開催だった。忠士は安い二階席を買ったが、ガラガラだったので最前列で聴くことができた。一階は三分の一ぐらい、せいぜい半分入っていたかどうかだ。出演者八人を聴き、「ああ、この人、すごいな」と思ったのは三人だけ。「浪曲だったら、やれるかな」と思った。
浪曲師になろうと思ったものの、どのようにしてなればいいのか方法が分からず、電話帳の職業欄をながめた。「浪曲 玉川勝太郎」とあったので、すぐに電話したところ、「今、巡業に出ているから、一週間したらまた電話を頂戴」と三代目玉川勝太郎夫人が答えてくれた。
入門の許しを請うために勝太郎邸を訪れた時、忠士は22歳だった。文京区根津の勝太郎邸に近づくにつれ、緊張が高まってきた。近くのそば屋でビールを一本飲んでから門をたたいた。木造の二階家で、門を入って右側には大きな犬小屋があった。勝太郎は猟をやるのでポインターを飼っていた。
高まる緊張で酔いは吹き飛び、茶の間に案内されても部屋へ入る度胸すらなかった。廊下にひざをつくと、「こっちへ入んなさい」と言われた。かちんかちんに上がっているのが分かった。
浪曲では入門許可を得る際、適性をはかるために歌唱力の試験「声調べ」を行う。忠士は梅鴬節で臨んだ。「赤城の子守唄」の「〽義理の片割れ 月夜のカラス」の部分をかなり喉を詰めてうなった。自分ではレコードの通りに唄ったつもりだったが、「そんな声しか、お前出ないのか」と言われた。民謡なら腹の底から大きな声が出せたので、「それじゃあ、オラが国さの民謡を歌います」と「花笠音頭」を唄った。
「ああ、その声でいいんだよ」確か廊下に小さなオルガンがあって、ドレミファソラシドもやったと思いますね。「浪花節には関東節、関西節があるんだ。どっちをやりたいんだ?」「うーん、私は分かりません。先生はどっちですか」「俺は関東節だよ」「じゃあ、私も関東節でいいです」 (「浪曲に風が吹く」)
関東節は高調子ともいい、三味線の音が「チャンチャンチャンチャンチャン」と高い。関西節はどちらかというと「ベンベンベンベンベン」と低い。このような区別も分からずに弟子入り志願をし、許されたのだった。仕事と自分のけじめをつけようと、入門日は1968年(昭和43年)8月12日、23歳の誕生日にした。芸名は本名をそのまま使い、玉川忠士(たまがわ ただし)となった。
修業時代
入門は許されたものの、三味線の音が取れず、苦労をする。それもそのはず、今まで三味線に接することがまったくなかったのだ。学校ではオルガンやピアノ伴奏による授業がほとんどだったし、民謡を唄うことがあっても伴奏は太鼓と手拍子だけだった。
そこで口三味線で「チャンチャンチャンチャン、チャンチャンチャン、〽利根の川風 たもとに入れ~て チャチャ~ンチャン」と、口移しで三味線の音色を教えてもらった。
掃除の仕方も一からしつけられた。はたきのかけ方については兄弟子から「俺が弟子に来た頃は、掃除が終わった頃に先代のおかみさんが起きてきて、障子の桟をこう、指でさするんだ。ほこりがあったら『やり直し!』と言われた。お前もちゃんとやれよ」と釘をさされた。雑巾をきつくしぼり、気を入れて掃除をした。
着物のたたみ方については師匠の三代目勝太郎から、二代目勝太郎に厳しくしつけられた話を聞かされた。「うちの親父はな、しわがあったら絶対に着てくれなかったぞ。きちんとたたむんだぞ」この他、拍子木(浪曲では木頭⦅きがしら⦆と呼ぶ)のたたき方や電話の応対の仕方も仕込まれた。
「いいか、たとえ浪曲で大成しなくてもな、浪曲の修業をちゃんとした者は社会に出て立派に通用するんだ」まあ、正直な話、その日、
その日は面白いことばかりではなかったんですが、今になれば、他で経験のできないようなことをさせてもらったなと感謝しています。
(「浪曲に風が吹く」)
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