本文へスキップ

横浜にぎわい座は、落語、漫才、大道芸などの大衆芸能の専門館です。

文字サイズ

閉じる

玉川福太郎~第2回 浪曲との出会い

 

浪曲との出会い

 玉川福太郎は1968年(昭和43年)に23歳で浪曲の世界に入った。それ以前は中華料理のコックをしていた。先輩が会社の寮で小さなレコードプレーヤーで何か聞いているのを見て、「何ですか、これは?」と尋ねると、「浪曲。浪花節ってんだよ、聞いてみな」と言われた。天津羽衣の歌謡浪曲だった。歌謡曲「花街の母」のような内容で、これが浪曲との出会いとなった。
 会社のバス旅行会では毎年、車内でのど自慢が始まった。昭和40年代前半はカラオケなどまだない時代だったが、手拍子で民謡、歌謡曲、詩吟など、めいめいが得意なものを歌った。「お前もやれ」と言われ、酔った勢いで歌ったのが生まれ故郷山形の民謡「花笠音頭」だった。

「ほう、いい声だ。もっとやれ」なんておだてられましてね、「〽車坂から~見下ろせ~ば すぐにも届く池之端」とうなったんですよ。酔っていたからやれたんですけどね。拍手をもらいました。なんとも言えない快感でしたね。 (「浪曲に風が吹く」)


 早くも浪曲を演じる快感を体験したのだった。

 
芸人伝_玉川福太郎第2回_1

原体験

 玉川福太郎の本名は佐藤忠士(さとう ただし)。日本海の荒波が打ち寄せる山形県酒田市に1945年(昭和20年)8月12日に生まれる。忠士が子供の頃は田沢村、その後、平田町となった所で、最上川の支流が流れている。二十数軒からなる集落の主人たちは田植えや稲刈りが終わると、一軒に集まり、親睦を兼ねた飲み会を行った。会場となる家は回り持ち。「おしょこ」と言った。酒が入って酔うほどに、歌や民謡が出る。伴奏に使うのは太鼓だけ。それでも知っている限りの民謡や歌謡曲を歌う。忠士はその様子が物珍しく、小さい頃から見て育った。声を出したり、歌ったりするのも好きだった。
 忠士の趣味の一つが相撲。小学校の頃からラジオで中継を聞いていた。鏡里、吉葉山、千代の山、栃錦が横綱の時代だった。会ったことも見たこともないのに、栃錦のファンで、優勝したら飛び上がって喜び、負けたら食欲が落ちた。

呼び出しさんですね、きれいな透き通るような声です。これを真似するんですね。私のお袋は心臓が弱くて、入院、退院を繰り返しておりましたが、その同じコタツに入っていて、「ね」。「ね」というのはね、私の母親のことなんですね、父親は「だだ」と呼んでたんですがね。「ね、オラ、大きくなったら呼び出しになろうかな」「馬鹿野郎」とだけ言ってくれましたね。なれっこないよとでもいうような言い方でしたね。 (「浪曲に風が吹く」)


 忠士の住む小さな集落は山のふもとにあった。家のすぐ下には川が流れている。この川に向かって三橋美智也の歌を大きな声で歌った。忠士なりに声を鍛えているつもりだった。
 夢だったのかも知れないが、祖父や父親がラジオで浪曲を聞いているのを、そばで聞いていたような気もしている。
 

転機

 天津羽衣以外にどんな浪曲があるのだろうと、先輩に聞いて何軒かのレコード店をまわった。目のつく所に飾ってあるものは少なく、戸棚から出してきたり、裏の物置から出してくれたりした。こうして初代春日井梅鴬や寿々木米若の浪曲を入手した。
 料理もある程度できるようになり、このままコックを続けていくのか決断する時期が訪れた。そんな時、蒲田の駅ビルに歌手の園まりがキャンペーンで訪れ、忠士が勤める店に食事に入ってきた。店内は「キャー、キャー、キャー、キャー」と大変な騒ぎ。「歌手っていいな」と芸界へのあこがれが芽生えた。
 しかし、自分は歌手という柄ではないとあきらめかけた時、買ってきたレコードのジャケットに記されていた文章が頭をよぎった。米若のレコード「佐渡情話」の解説に「寿々木米若はレコードを吹き込んでアメリカ巡業へ行き、戻ってきた時には売れに売れて、大スターになっていた」とあったのだ。新潟出身の米若は訛りがあったが、浪曲はそれでも通用するのか。自分も浪曲ぐらいはやれるかなと思い始めた。そして浅草国際劇場の浪曲大会を知らせる新聞記事を目にする。

 
芸人伝_玉川福太郎第2回_2

第1回

第3回

ページトップへ

Copyright © Yokohama Nigiwai-za. All rights reserved.