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横浜にぎわい座は、落語、漫才、大道芸などの大衆芸能の専門館です。

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玉川福太郎~第1回 横浜にぎわい座最初の演芸会

 

横浜にぎわい座最初の演芸会

 「横浜にぎわい座 試演会記念」と記された色紙がある。「H14.4.3(wed)」という日付も記入されている。当館の公演は2002年(平成14年)4月14日の「立川談志の家元落語会」から始まったが、舞台を初めて使用したのは4月3日の「試演会」だった。

 
芸人伝_玉川福太郎第1回_試演会色紙
試演会色紙

 

 舞台の使い勝手とともに、表方スタッフや舞台スタッフの動きも確認するための公演で、横浜市役所職員などが観客となった。前座の金原亭駒丸、二ツ目の五街道喜助、水戸大神楽曲芸の柳貴家小雪、浪曲の玉川福太郎という順で出演。福太郎は仲入り(休憩)をはさんで2席口演した。初めは釈台を使った座り高座、次は立ち高座で、腰の高さほどある演台を前に置く。三味線を弾く曲師は玉川みね子。玉川こう福は福太郎の世話をする後見をつとめた。
 駒丸は現在、真打となった金原亭馬治、喜助は当館での出演回数も多い桃月庵白酒である。

 

 浪曲の演台は通常、下手側に湯飲みを置く台、後方にイスを置き、それぞれに「テーブル掛け」と呼ばれる布を掛ける。メインとなる演台への布の掛け方にはコツがあり、舞台に垂れた裾の部分を斜め下へとピンと引っ張り、正面から山形に見えるようにしないと舞台映えがしない。一連の作業にはどうしても2、3分かかる上、テーブル掛けで覆われる部分を見せてしまっては元も子もないので幕を閉めることになるため、舞台進行が中断されるのは否めない。落語などと共演する時は舞台転換に手間取らない釈台を使う方がよい。しかし、釈台を使う浪曲師は当時、福太郎以外にはいなかったように思う。節を唄いあげるには座るよりも立った方が腹から声がよく出るという理由からだったが、福太郎は一切そうしたことは口にしなかった。

 

 浪曲は明治後期に桃中軒雲右衛門が劇場で演じるようになってから、釈台よりも演台を使って立って演じるスタイルの方が主流となる。舞台の間口が狭い所では、演台と湯飲み台、イスだけを用いるが、間口の広い場所では舞台前面の上手と下手に松などの盆栽を置く台を配置し、それにも布を掛ける。必要となるテーブル掛けは5枚となり、これを「五点セット」と呼んでいる。殺風景な体育館などで演じる場合でも、テーブル掛けの装飾によって舞台が華やかになる。これも浪曲がテーブル掛けを使って演じる理由の一つである。テーブル掛けは民謡でも使用されているが、イスや湯飲み台などまで置く例は見たことがない。「三点セット」や「五点セット」は浪曲独自の舞台装飾といえるのではないだろうか。

 

 しかし、寄席では雲右衛門以後も釈台で演じることが多かった。東京の各町内に寄席があった時代には風呂屋の二階のような人が集まる場所を改築して寄席が作られることもしばしばだった。舞台は「高座」という文字が表す通り、客席よりも高くなっているので、既成の建物に高座をしつらえた場合、立って演じると頭が天井にぶつかることも起きた。必然的に座り高座で演じるしかなかったのだ。「浪曲にも釈台を使った先輩方がいたのだから、演じる場所に合わせて座って演じることも大切だ」というのが福太郎の考えだった。福太郎の座り高座スタイルを継承している弟子の太福によると、座って演じた方が、目線が観客に近くなり、笑いのある芸を演じる時などは一体感が生まれやすいという。

 福太郎に続いて澤孝子も口演内容によっては座り高座で演じるようになった。孝子の師匠、二代目広沢菊春は落語浪曲で知られており、新宿末広亭の落語定席にも出演した。その時は、釈台も演台も置かず、座布団のみ。出囃子とともに現れて座布団に座って深々とお辞儀をして話し始める。まったく落語と同じ形だ。途中で節が入って初めて観客は「浪曲なのか」と理解したという。孝子も、菊春ゆかりの「徂徠豆腐」や左甚五郎ものを演じる時に座布団のみの座り高座を取り入れることがあったのだ。孝子も福太郎も観客の心をつかむ口演を行っている。

 現在は若手を中心に座り高座を取り入れる者が多くなっている。やはり慣れの問題のようだ。

 福太郎の座り高座には浪曲をかつてのように大衆的なものにしたいという思いが強く表れていた。大衆芸能の殿堂を目指す当館にとってふさわしい演者として福太郎に「試演会」出演をお願いしたのだった。

 

 お囃子の太田そのを含め、選りすぐりの出演者で行なわれた「試演会」は笑いと感動が客席を包む内容となった。終演後は楽屋で懇親会。玉置宏館長、澤田隆治企画アドバイザーも参加し、各出演者から舞台の感触を聞いてまわるとともに、「あなたたちのために出来上がった演芸場です。ぜひ御活躍を!」とエールを贈った。その激励に福太郎は「しっかり活用できるように頑張ります」と決意を新たにしていた。

 

 明治後期から太平洋戦争終結後20年近くまでの60年余りの間、芸能の王者といわれた浪曲だったが、その後、急速に衰退をした。
 浪曲の魅力を広く伝え、大衆的な娯楽に回復させたいと奮闘を続けた福太郎の歩みをこれから振り返っていく。

 2005年(平成17年)2月21日(月)~2月24日(木)に放送されたNHK「ラジオ深夜便」の「ナイトエッセイ」で「浪曲に風が吹く」と題して福太郎自らが語ったものが唯一の半生記といえるものなので、それを中心にまとめていきたい。

 

 
芸人伝_玉川福太郎第1回_釈台
玉川福太郎、釈台スタイル

 

第2回

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