文化庁芸術祭賞受賞
「浪花節じいさん」は浪花節をうなるのが大好きで「浪花節じいさん」と呼ばれている男性が主人公。家族から浪花節をやめるように言われるが、三味線を趣味とする同年配の女性や孫の助けを得て、町内会の祭りで浪花節を披露する。これが評判となり、浪花節の大ブームが訪れる。分かりやすく、親しみのある筋立てが福太郎の温かな人柄によって明るく朗らかに仕立て上がり、終始笑いの絶えない内容となった。「陸奥間違い」と「浪花節じいさん」という古典と新作での好演は福太郎の芸の幅と厚みを示すものであり、「声よし、節よし、時代を取り入れたケレン(笑い)、啖呵の妙」と複数項目において評価され、平成2年度文化庁芸術祭賞受賞に輝いた。節と啖呵で骨太に描写する力を蓄え、大衆に愛される浪曲芸を確立したことがおおやけに認められたのだった。福太郎45歳。入門22年目の快挙である。
危機感
浪曲師の道場でもあり晴れ舞台でもある木馬亭。今でこそ、入門者が続々と現れ、呼び込みや舞台進行もこなして、活気にあふれているが、1970年代から1990年までの20年間はほとんど入門者がいなかった。その中で国本武春というスターが現れた。彼は浪曲師の両親のもとに生まれている。他の入門者もほとんどが親は浪曲師という共通点があった。一般家庭の入門者はほぼ皆無であり、長続きもしないという状態が続き、木馬亭の出演者は高齢化していた。
入門者が途絶えて、私も二代目玉川福太郎を襲名したもんですから、前座をやらせる訳にはいかないというのでね、二つ目、三つ目に上げてもらえるように出番を組んでくれるんです。そうなると、私の後輩がいませんから、大先輩方がね、前座に上がってくれるようになったんです。ありがたいやら、うれしいやらですが、「いったい、この先、浪曲の世界はどうなるんだろう。もしかしたら、俺が最後の浪曲師になるのかな。私も師匠に育ててもらったんだから、私もひとりぐらい弟子を取って育てなくては申し訳ない。先輩が育てないなら私が」と思ったんです。歌の好きな人、芸事に興味のある人、片っ端から声を掛けました。 (「浪曲に風が吹く」)
弟子の育成
フランス車の販売店に勤めるOLや新内を学ぶ女性は浪曲を一席覚えると、舞台にも上がった。福太郎が席亭に頼み、木馬亭定席に前読み(最初の出番)で出演した者もいる。しかし、ただの稽古事とは違うことが如実になると、プロにはなれないと辞めていった。その繰り返しの後、忘年会の隠し芸で浪曲を演じた劇団員の存在を知る。福太郎の後援会長が所有する原宿のビルで稽古や公演を行なっていたTAC三原塾の塾生、酒井紀江(さかいことえ)である。「それじゃあ二十五分か三十分、一席覚えてみろよ。ちゃんとやれるようになったら小遣いをあげるよ」と福太郎がけしかけ、1990年(平成2年)4月に入門となる。ネタを覚えると、次々に前読みをつとめ、1992年(平成4年)11月に名披露目。玉川カルテットの初代リーダー、玉川ゆたかの前名、玉川福助を継ぐ。
その後、お福、こう福、奈々福、ぶん福、太福(だいふく)と入門者がふえ、弟子は6名となった。
奈々福は曲師として入門した後、浪曲師に転向している。この時も福太郎の熱意が際立った。
再び、浪曲三味線教室
1994年(平成6年)、日本浪曲協会会長に就任した三代目玉川勝太郎は曲師の高齢化と減少がいまだ改善されないことを憂えて、浪曲協会主催の三味線教室を始めた。三味線を持っていない者には無料で貸してくれることなどが新聞で紹介されたこともあり、十数名の生徒が集まった。その中に長嶋美穂子もいた。
浪曲三味線は臨機応変に演奏することが求められるので、教室で習っただけではものにはならない。実際の舞台で浪曲師の演奏を何度も何度も体験することによって習熟していく。だれもが到達できるわけではないことを協会側はじゅうぶん承知していた。過去の三味線教室の経験からも、講習が進むにつれて脱落者が現れることも想定済みだった。そのため三味線を貸与するなどしてハードルを下げ、講習開始時にはなるべく多くの生徒を集めようとしたのだ。
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