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国本武春~第6回 紺屋高尾

 

紺屋高尾 
 第3回で記した初代篠田実の口演について、居合わせた観客の立場で詳述する。その公演は1982年(昭和57年)6月27日、木馬亭で開催された「東西浪曲大名鑑 月刊『浪曲』発刊記念公演」。既に引退していた初代篠田実が出演し、初代木村松太郎と明治から昭和にかけての浪曲黄金時代の思い出を語った。この対談で松太郎が実の『紺屋高尾』がいかに流行ったか、銭湯に行けば湯船で、町を歩いていると自転車に乗った出前持ちが『紺屋高尾』のひと節を唄っていたと身振りをまじえて楽しく語った。場内は大いにわき、その熱気にほだされたのか、突如、実が「それではこれから『高尾』を演じます」と宣言した。一旦休憩となったが、客席はざわめきがおさまらなかった。そして幕が開く。実が浪曲を演じる予定はなかったので、着物を用意しておらず、スーツ姿のまま。しかし、語り始めると、目の前に高尾太夫と紺屋職人久蔵が現れて会話しているように感じた。満員の客が皆、そういう思いだったようで、皆、かたずをのんで口演を見入った。終わっても誰も手をたたかない。少しの間があって、皆、思い出したように激しい拍手をし出した。舞台袖にいた武春も感動のあまり、終演後、体が硬直し、拍子木をすぐ打つことができなかったのだ。
 『紺屋高尾』は二代目篠田実に継承されていたが、二代目は1990年(平成2年)に他界。5年後の1995年(平成7年)に武春はこの演目をネタ下ろしした。初代、二代実の演出に武春ならではの工夫を加えている。相三味線、沢村豊子と作り上げた演目終盤のスピード感あふれる軽快なバラシの節は聴く者を魅了し、武春浪曲の代表演目とまで言われるようになり、三代目篠田実襲名の話まで起きた。
 
数々の受賞
 1995年(平成7年)、武春は文化庁芸術祭参加の2公演に三味線弾き語りで助演をし、公演を盛り立てた。その技量が審査委員の目にとまり、武春の三味線弾き語りは伝統をベースに時代に合った節と語りと音の世界を作り上げていると評価され、文化庁芸術祭新人賞を受賞する。助演者が芸術祭で受賞することはとても稀なことである。さらに、同年の目覚ましい活躍ぶりにより、浅草芸能大賞新人賞も受賞した。
 また、演芸界から優秀な若手を集めて賞を与える国立演芸場の「花形演芸会」でも浪曲でたびたび賞を獲得するようになる。そして、1999年(平成11年)6月12日の「花形演芸会スペシャル受賞者の会」で『佐倉義民伝~甚兵衛渡し』を演じて大賞受賞。領主の悪政に苦しむ農民を救うため、死を覚悟して将軍に直訴することを決意した宗五郎。そして残される妻子への宗五郎の思いを知った船頭の甚兵衛が法を犯してでも舟を出して宗五郎と家族を再会させようとする姿が節と啖呵で明確に描かれており、武春の『義民伝』が確立したといっても過言ではない出来ばえだった。

(W受賞を祝う会 たいめいけん)
 
積極的な活動
 90年代の武春は浪曲や三味線弾き語りの公演をさまざまな形で行っている。その結果、イベンターや劇場から出演依頼を受けた興行が増えていく。さらに活動の幅も広がり、芝居やテレビの出演も果たす。1996年(平成8年)には木の実ナナ、上條恒彦、尾藤イサオが出演するミュージカル「狸」の音楽制作及び出演、1998年(平成10年)には劇団ラッパ屋の「阿呆浪士」、1999年(平成11年)にはNHK大河ドラマ「元禄繚乱」に宝井其角役として出演している。
 まさに八面六臂の活躍だが、こうした様々な活動の根幹にあるのは浪曲を若い世代にも聴いてもらえるようにという意欲と精進であった。それが成果として現れていると認められ、平成11年度芸術選奨文部大臣新人賞受賞へとつながる。

(国本武春、芸術選奨新人賞)
 
たとえば僕ぐらいの年の浪曲師が五、六人いて、俺は新作だとか、俺は古典だとか、こっちはライブハウスでこっちは寄席だとかいうバリエーションがあれば、「それはもうお前に任せた。俺はこっちをやるよ」と言えるんです。でも、結局僕一人しかいないから、自分であっちもこっちもやらなきゃいけない。それで、いまなにをすれば一番いいのかということを考えて、弾き語りなんかをしているんですね。
やっぱり将来、巡り巡って自分が古典的な浪曲と向き合ったときに、どれだけ水準をあげられるかというのは、今やっている寄り道にかかっているような気がしているんです。その時代までに、お客さんも含めて、どうにか浪曲の機運を少し盛り上げておきたいというか。 『小沢昭一がめぐる寄席の世界』

 
武春は常に前を見て走り続けた。
 

 
文化交流使
 1987年(昭和62年)9月、武春は佐藤通弘と初渡米し、ニューヨークとボストンで『英国密航』を口演した。言葉は通じなくとも、顔や手足の動きで喜んでもらえ、上々の感触だった。それから13年後の2000年(平成12年)、新国立劇場で上演されたブロードウェイミュージカル「太平洋序曲」に出演。これが好評で2002年(平成14年)にニューヨークとボストンでも公演を行うこととなった。この時、鳴りやまない拍手とブラボーの嵐、観客総立ちのスタンディングオベーションを経験した。それは広沢虎造の録音から聞こえてくるものすごい量の拍手と重なるものがあった。日本にもかつてあったエンターテインメントを心から楽しもうとする空気、熱気がアメリカには今も残る。アメリカ留学への思いが高まっていった。
 文化庁に在外研修制度「文化交流使」があることを知り、この制度を使って2003年(平成15年)9月から一年、イーストテネシー州立大学ブルーグラス学科で学ぶことに。テネシー州はストーリーテーリングが盛んな場所であり、浪曲のインターナショナル版に出会えることもできた。ただし、浪曲や落語、講談のように人物の演じ分けはなく、語り部が「こういうことがあって……、ああいうことがあって……」と説明しながら進める形だった。一人の演者が人物を演じ分ける形は日本独自のものかも知れない。

 
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