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国本武春~第5回 若者に広がる浪曲の輪

 

若者に広がる浪曲の輪 
 武春は同世代の者たちをブレーンとするだけでなく、彼らに浪曲を演じさせるという話題づくりも行った。1989年(昭和64年)から木馬亭で数回開催された「しろうと浪花節ナイト」公演は浪曲口演歴がない出演者ばかりという点で、それまでのアマチュア発表会とは異なった。
 アマチュアといえども、愛好会に属して研鑽を積んで舞台に立つのが常識であったのに、「浪花節ナイト」は武春の指導はあるものの、数回の稽古だけで本番を迎えるという大胆なものだった。しかし、そのことが「浪曲にまったく無縁の若者が集まって浪曲をうなった」と宣伝され、注目を集めた。公演を見た永六輔が渋谷ジャンジャンの「永六輔10時劇場」でわざわざこの公演を話題にした。永六輔は作詞家、作家であり、タレントでもあるという多彩な活動をした人物。軽妙な語り口が人気を集め、彼の公演は常に立ち見が出るほどの人気があった。特にジャンジャンのこの会は情報発信の場としても機能していた。「武春を中心にして若者が浪曲で盛り上がっている」といううわさが徐々に広まっていった。これこそが武春が意図したことだった。「浪曲は楽しそうだ」というイメージを浸透させることこそ浪曲普及には不可欠と武春は常々考えていた。日本浪曲協会も「しろうと浪花節ナイト」に協力を申し出た。
 
木馬亭で浪曲を
 三味線ロックによって、その自由な三味線演奏や武春という人物、あるいは浪曲に興味を持った人々が浪曲を聞きに木馬亭に足を運ぶようになる。武春はこのような図式を思い描いていた。1989年(平成元年)には「武春浪曲十番勝負」を開催。四代目天中軒雲月をゲストに招き、武春は雲月の十八番ネタ『佐倉義民伝』を口演した。「うなって語って錦糸町」が幅広く浪曲初心者を取り入れようと企画されたのに対して、この公演は浪曲をさらに深く味わってもらおうというものだった。
 武春は木馬亭定席などで浪曲を口演する時は『英国密航』『大浦兼武』『遊女の国旗』『原敬の友情』などをもっぱら演じた。これについて「旧態依然とした作品ばかり演じるのではなく、もっと新しい感覚のものを三味線ロックとして演じてほしい」という声も時折聞こえた。
 昔ながらのネタだから「旧態依然」というのは短絡的で、武春の演じる浪曲ネタは少しずつではあるが、工夫が加えられていた。それを認めようとしない姿勢に、武春は憤ることなく、「それだけ三味線ロックのインパクトが強いってことかな」と受け流していた。そして浪曲ファンの声に耳を傾けつつも、全面的に取り入れることはせず、自分が信じる道を突き進むという姿勢を生涯貫いていった。
 1992年(平成4年)3月、渋谷エッグマンで三味線ロックを発展させた公演を行った。キーボード、ベース、ドラム、ギターの演奏で、イソップ物語に登場するキリギリスのサムが旅する物語を演じたのだ。同年9月からは上野の森・東照宮で「国本武春のお話しらいぶ びんなりしんなり」を開いた。「びんなりしんなり」とは武春が幼少の頃、腹痛を起こした時に祖母がお腹をなでて寝かしつけてくれた時のおまじないの文句だった。このおまじない同様に心安らぐものが浪曲を始めとする語りものではないかという武春の思いが公演名となっている。この公演を始めるきっかけは若者向けのライブで一番喜ばれたのが『浦島太郎』などの話を歌と語りで演じる語りもの形式の作品だったことによる。武春の三味線の弾き語りと日野晃のキーボードで、浪曲、義太夫、ニューミュージック、カントリーなど場面に応じた節を使い、『国定忠治』『ガリバー旅行記』『松山鏡』を演じた。

 
 流行歌になりうるようなインパクトの強いメロディーのものを作って、そういう歌とか節を使って語り物ができたら面白いと思うんです。歌の部分はヒット曲で啖呵の部分は鍛錬した面白い啖呵であったら、それはものすごく水準の高いものになるんじゃないかな。
『月刊浪曲 1993年8月号』所収「浪曲の魅力と抱負 国本武春おおいに語る」

 

 
 こうして『松山鏡』『ザ・忠臣蔵』『巌流島歌絵巻』などの代表作が生まれていくにつれ、「三味線ロック」の名称は次第に使われなくなり、「三味線弾き語り」という呼称に統一されていく。一方、昔ながらの演目は古典演目として武春ファンの間で認知されていった。
 『大浦兼武』は青年巡査、大浦のさわやかな実直さが笑いとともに描かれた作品となり、初代、二代篠田実の十八番であった『紺屋高尾』も武春ならではの節と啖呵により、高尾太夫への一途な恋を貫こうとする紺屋職人久蔵の姿が胸を打つ作品となる。
 
 浪曲師として自分が充実するのは四十代だと思います。その全盛期・旬をいい形で迎えるために、お客さんも作っておかなければならないし、もちろん、自分自身が成長していかなければならない。(中略)今の時代は、芸ばかりか、演者の人間性を含めての魅力が大事な時代だと思います。「あいついいね」と言われ、何をやっても喜んでいただけるように、自分自身もなっていきたいと思っています。
 九州の大会を後見で一月まわっていたとき、幸枝若、五月、雲月、初代浦太郎、辰造という先生方の火花を散らす舞台を袖で見ていて、ぞくぞくした覚えがあります。そこで人生とは人間とは何かを学びました。
『月刊浪曲 1996年1月号』所収「芸術祭新人賞に輝く国本武春に聞く」

 
 30代の武春は弾き語りで観客の開拓をし、浪曲は地道な研鑽を積んでいった。

 
第4回 

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