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国本武春~第2回 浪曲に目覚める

 

浪曲に目覚める
 演劇に興味を持ち始めた武は日本工学院専門学校の演劇科に進学する。海宝も一緒だった。洋舞や日舞、発声、朗読などの授業の他、劇団四季や帝国劇場の芝居など、今まで観たことのないさまざまな芝居を観に行くようになる。そして年2、3回の発表会。ところが主役をつとめるのは常に背が高く、スラッとした者ばかり。武には通行人とか市長さんといったセリフが2行もあればよい脇役ばかりが割り振られた。何ヶ月もその2行のセリフのために稽古を続ける。やりきれない気持ちが日に日に重くのしかかってきた。
 長時間人前で演じることができるものは何かと考えた末、思い当たったのが落語だった。民謡酒場でアルバイトをして稼いだお金で、上野鈴本、新宿末広亭、当時、全盛だったホール落語の東横落語会やにっかん飛切落語会などに通う。六代目三遊亭圓生には間に合わなかったが、五代目柳家小さん、十代目金原亭馬生、古今亭志ん朝、初代林家三平などの高座に接することができた。落語にのめり込み、いろいろな演芸の本を読んでいるうち、大衆的な話芸には落語の他、講談や浪曲などもあり、「なかでも浪曲は一世を風靡した芸能で……」という記述をたびたび目にするようになる。両親の商売でありながら、それまで浪曲をじっくり聴いたことがないことに気がつく。
 
 早速、二代目広沢虎造、寿々木米若(すずきよねわか)、浪花亭綾太郎(なにわていあやたろう)、二代目玉川勝太郎(たまがわかつたろう)、三門博(みかどひろし)、初代京山幸枝若(きょうやまこうしわか)、初代春日井梅鴬(かすがいばいおう)などのカセットテープを買い、片っ端から聞いた。ところが話の内容も、どうしてダミ声を出しているのかも分からない。特にショックが大きかったのが、それを聞いている自分が浪曲師を両親に持つということだった。
 比較的分かりやすい作品や笑いの多い作品を中心に、繰り返し聞き直してみる。すると何となく少しずつ分かってきて、楽しくなってきた。軽い節、はずむ節、スピード感のある節、それにからむ三味線。面白く、ワクワクして、感動して……。そのうち、最初に聞いた時まったく分からなかった演者にも、芸の深み、渋み、声の迫力に圧倒されるようになった。

(若き日の武春肖像)
 
  そして、いろいろ聞いて一番驚いたのが、浪曲という芸の幅の広さ、その懐の深さ、そしてバリエーションの多彩さです。
ひっくり返るほど面白い浪曲があったかと思うと、まるで一人で歌舞伎を演じているような格調の高さを感じさせるスケールの大きい浪曲、これでもか! と泣かせる悲哀溢れる浪曲、スピード感・テンポ感があり思わず踊りだしたくなる様なワクワクする浪曲……、その種類の多さはとてもここに書ききれるものではありません。『待ってました名調子!』

 
浪曲三味線を習う
 専門学校は2年制のため、2年生になってすぐ、卒業後の身の振り方を考えた。もうその時には浪曲のとりこになっていたので晴美に相談すると、「三味線を習ってみたらどうか」と勧められた。武が津軽三味線を習い始めた頃、晴美の稽古に通ってきていたのが三味線の東家栄子だった。その自由な演奏、音締めのメリハリ、タイミングのすばらしさ。浪曲師の語る節が変われば、奏法も自在に変わる。演者に合わせていく気合い、意気込みも感じられて、すっかり浪曲の三味線に魅了されていた。
 最高峰の師匠のもとで習わせたいという晴美の意向により、栄子の師匠である東家みさ子のもとに通うようになる。みさ子は大正から昭和にかけてのスター、東家楽燕や女流浪曲の大家、京山華千代、戦後の四天王の一人、松平国十郎など何人もの名人を弾いている。中でも楽燕は品格漂う芸で、『乃木将軍伝』を演じた時には、楽燕そのものが乃木将軍に見えたのだろう、観客たちが楽燕に向かって直立不動の姿勢で威儀を正したという。畳みかける節と哀切のある節の緩急の差によって、聴く者の心に真面目さ実直さが迫ってくる芸であり、弟子の幸楽が、みさ子の夫である。
 浪曲の三味線の稽古は三味線単独よりも、浪曲に合わせて弾いた方が効果的だ。そこで幸楽が稽古台となって浪曲を唄い、それに合わせて三味線を弾いたりもした。ところが幸楽が唄い出すと、「何、お父さんその声は? そこんとこはもっとこういう風に出さなきゃ駄目よ」とみさ子が言い出し、いつのまにか幸楽の稽古に変わってしまうのだった。
 

(東家幸楽師匠と)
 
浪曲師、国本武春誕生
 みさ子は三味線の稽古が終わると浪曲黄金時代の話をいろいろとしてくれた。体験にもとづくリアルな話なので、本で読む知識とは段違い。その芸談を聞くたびに浪曲のすごさ、浪曲師への憧れがふくらんだ。専門学校の卒業を機に浪曲師になりたいと願い出て、幸楽の弟子となり、国本武春と命名される。1981年(昭和56年)のことである。最初に取り組んだ演目は『若き日の藤田伝三郎』。明治時代に実業家として成功を収めた人物のエピソード。出世美談といわれるもので、浪曲では新人にこの種の演目を与えることが多い。物語の主人公にあやかって当人にも出世してもらいたいという期待が込められている。武春には他にも『大浦兼武』『原敬の友情』といった出世美談があり、十八番ネタに仕上げている。
 武春は入門そうそう大きな壁にぶつかる。浪曲の声節がなかなか身につかなかったのだ。彼以前の入門者は入門前から趣味として浪曲を演じており、プロとして本格的に芸を磨こうという者が多かった。

(掛け合い浪曲の三味線を弾く武春)
 
 私も含め、私以降の人たちは、声節がまったく出来ていない状態で「浪曲をやってみたい!」と、ズブの素人で浪曲界に入って来る。
声節が上達するまでというのは、どうしても時間がかかります。入門してから声の出し方、節の勉強を始める。これではなかなか次のステップに進めないし、第一、形になるまで時間がかかり過ぎる。なので、ある程度のところで妥協して自分の声節を固めてしまう、あるいは固まらないうちに一生終わっちゃう人もいるかもしれない。声や節がある程度の水準まで達していないと、啖呵を磨いたり自分の節を工夫するどころではありません。『待ってました名調子!』

 
 啖呵とは節をつけずに語る部分。浪曲においては「一、声。二、節。三、啖呵」といって、声と節が芸の根幹として重要視されている。
 
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