夫婦それぞれの闘い
千重子は退院できたが、人工肛門をつけることになる。そのような身でも舞台復帰を果たそうと努め、1年後には人工肛門を取る手術を行って完全復帰を果たした。ところが腰が激しく痛むようになる。ヘビの箱の中で中腰になることもつらい。ハリや灸などあらゆる治療を行って腰痛と闘った。
ショパンは依然として酒びたりの生活を続けていた。山梨での仕事では楽屋に用意されていたワインの一升ビンを舞台前に空にしてしまい、ロレツのまわらぬ状態で舞台に立った。
体調が悪くてもそのままにしていたが、背中が腫れて痛み、食事もできなくなってきた。コーヒーを飲んでも吐いてしまい、入れ歯も落とすようになる。診断してもらったところ肝臓がボロボロになっていた。それでも酒はやめられなかった。
結局、本当にやめるのには何年もかかった。それも医者やチーチャンに怒られるからというような他力本願ではだめだった。やめる前の数週間は浴びるほど飲んで、夜仕事をしている時間と飲んでいる時間以外はほとんど二日酔いで寝ているような自堕落な生活だった。たぶん死ぬ一歩手前だったのだと思う。数百メートル歩いただけで息が切れて、酒の臭いをかいだだけで気持ちが悪くなった。でも、そこまで自分を追い詰めた末に、ようやくふっきれた。 『グリーンスネーク COME ON!』
ヘビのショーに幕
1989年(平成元年)。ショパンは還暦を迎えた。千重子の腰痛は悪化するばかりで、体が思うように動かなくなっていた。「今年一杯で仕事をやめたい」と千重子に懇願されたショパンは承諾したものの、ヘビのショーを続けたいという強い思いが残り、やめることはできなかった。千重子が痛み止めの注射を打つ回数は倍に増え、効き目も二時間位しか続かなくなった。足がしびれ、足首もはれるようになり、舞台でハイヒールを履くこともできない。ショパンにも千重子の背が曲がっているのがはっきりと分かった。
千重子が「やめたい」と言ってから5年後の1993年(平成5年)3月、千重子は引退し、ヘビのショーにも幕が下ろされた。
新たな動き
2001年(平成13年)7月、浅草・木馬亭に東京コミックショウが出演した。ショパンの著書「レッドスネークCOME ON!」と「グリーンスネーク COME ON!」のプロデューサー、上島敏昭が率いる「浅草雑芸団」が招いたのだ。新しい弟子とヘビのショーも行って大好評だったということを不覚にも私は翌年になって知った。
実はこの時、私は当館で行う「神田陽子が語る女の恨み『四谷怪談』 演芸フレッシュ競演会」に出演して頂くゲストが決まらず、困っていた。この公演は、コント、落語、曲独楽、漫才というさまざまな芸種の若手による競演会に講談の神田陽子がゲスト出演するという内容。芸種の異なる大物演者にも出演してもらいたいと考えていた。「もし東京コミックショウの出演がかなったら」と思うだけで胸が高鳴り、すぐに依頼の連絡をした。その際に、舞台仕様について説明したことが功を奏したようだ。競演会という性格上、出演者各人に思い切って芸を披露してもらえるように、座って演じる落語と講談の時のみ高座台を置き、立ち芸の時は履物を履いたまま演じられるようにと考えていた。東京コミックショウの舞台はヘビのショーの後はマジックになり、観客を舞台に上げる。今回の舞台仕様なら靴を脱いでもらう必要もないので、公演内容に理解を示して頂けた。
公演当日、ショパンはお客さんを舞台に上げた際に「国立演芸場は国民の税金で成り立っているのに『靴はいて出ちゃいけねえ』って、そんなこと言うんだ」と話し出した。「放送局も、あれ言っちゃいけない、これ言っちゃいけないって規制ばかりする。日本は規制が多いから、いい芸人が育たない」とうっぷんをぶちまけた。
しかしそれは一瞬のことで、すぐに穏やかで、とぼけた口調で手品を始めた。ショパンの手品は手際の鮮やかなものばかりではない。手順が狂ってうまくできず、放り出してしまったり、ネタバラシをしたりして笑わせたりもする。巧みな話術と演出により、笑いが絶えない。ショパンをヘビのショーのおじさんとだけ思っていたら大間違いだ。コメディマジックの第一人者である。ヘビのショーは「オリエンタル・マジック」という出し物の一つだったのだ。
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