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桂歌丸~第1回自伝について

 

自伝について
 当館の二代目館長であり、三遊亭圓朝が創作した長編人情噺を手掛ける落語界の第一人者。そして国民的人気テレビ番組『笑点』の顔。その知名度、人気の高さを物語るように、桂歌丸の自伝は3種類出版されている。芸能史研究家の山本進がまとめた『極上 歌丸ばなし』(うなぎ書房。2006年発行)、それを加筆修正した『歌丸 極上人生』(祥伝社黄金文庫。2015年発行)。神奈川新聞の連載「わが人生 桂歌丸」に加筆訂正した『座布団一枚! 桂歌丸のわが落語人生』(小学館。2010年発行)。読売新聞編集委員の長井好弘が編者をつとめた『恩返し 不死鳥ひとり語り』(中央公論新社。2012年発行)とその改訂版『歌丸 不死鳥ひとり語り』(中公文庫。2018年発行)である。
 
横浜の遊廓史
 横浜の遊廓は幕末に生まれた。1859年(安政6年)の横浜開港に合わせて、現在の横浜スタジアムの場所に港崎遊廓(みよざきゆうかく)が作られたのが始まりだ。四方が堀で囲まれ、入り口は大門からの一つだけという江戸の吉原遊廓にならった造りだった。外国人専用の妓楼も作られ、開港地横浜の遊廓として栄えたが、1866年(慶応2年)に遊廓へと続く吉原道で豚肉料理を商っていた鉄五郎方より出火した「豚屋火事」により消失してしまう。ちなみに鉄五郎は三代目石川一夢という講釈師だったと長谷川伸が記している。
 その後、同地に遊廓は再建されず、伊勢佐木町近くの羽衣町に移り、吉原遊廓と呼んだ。この移転は伊勢佐木町が芝居小屋を中心とした盛り場として発展していく要因の一つとなった。しかしここも火事で焼失し、現在の横浜駅近くの高島町に移転し、高島町遊廓と呼ばれた。高島の名は1872年(明治5年)の新橋駅(のちの汐留駅)~横浜駅(現在の桜木町駅)間に開通した日本初の鉄道の用地埋め立てに貢献した高島嘉右衛門にちなむ。その功労に報いる形で土地が貸与され、高島町の名がついただけでなく、遊廓も作られた。当時の遊廓はその一帯を盛り場にしてしまうほどの力があった。しかしその利権には制約がかかり、ここに遊廓があったのは1872年(明治5年)11月から1881年(明治14年)3月までの8年余りだった。国内外の貴顕も乗車する鉄道から遊廓の様子が丸見えの状態だったというのだから評判が悪かったのは当然だ。そして、再び伊勢佐木町にほど近い真金町へと移転する。真金町と永楽町にまたがる区域にあったので永楽遊廓と名づけられた。この移転により、伊勢佐木町はさらに盛り場として栄えていく。
 昭和の初め、真金町の妓楼「いろは」「ローマ」「富士楼」にはおばあさんがおり、「真金町の三大ばばあ」と呼ばれていた。「富士楼」のおばあさんは椎名タネ。タネの息子貞雄と妻ふくの間に1936年(昭和11年)8月14日に生まれた男の子は巌(いわお)と命名された。後の桂歌丸である。

 
おばあちゃん子
 貞雄は巌が3歳の時に他界したので、顔も覚えていないと歌丸は語っている。芝居が好きだったタネは一粒種の孫、巌を芝居や映画によく連れて行った。戦前は伊勢佐木町界隈にも芝居小屋が点在し、敷島座では剣劇のような芝居と幕間に漫才をやっていた。また、柳家金語楼劇団が「強情灸」などの落語ネタを芝居に仕立てて演じていたのは横浜花月劇場だったのではないかと歌丸は回顧している。この劇場は大正初めまでは賑座という名称だった。
 生家が廓ということで、年中行事がさまざま行われた。元旦には正月祝い、2月は初午、戦時中も甘酒を振る舞ったり、子供たちに駄菓子を配ったりした。節分の豆まきも盛大に行った。3月のひな祭りは店の女の子たちに里心がつくという配慮からか、行われなかった。反対に豪勢だったのが端午の節句。巌を可愛がるタネの気持ちが表れた、部屋の半分が埋まるくらい立派な兜や五月人形が飾られた。11月のお酉様も盛大だった。今も真金町では金刀比羅大鷲(ことひらおおとり)神社で酉の市が行われているが、昔の十分の一ほどのにぎやかさしかないという。
 
 今の大通り公園が川だったころは、川縁(かわべり)にずらっと熊手の屋台が居並んで、それはにぎやかでした。そこへ、着飾った廓の女の子たちが、お客さんに連れられて出向くわけです。一の酉と二の酉、あるいは三の酉まである年もあるでしょう。人気のある女の子は、お客さんからたくさん熊手を買ってもらえるわけです。そんなに大きなものじゃないですけど、ひとりで五つも六つも熊手を買ってもらう子もいました。ただ、それをずっと自分の部屋に飾っておくわけにはいきません。なぜって、別のお客さんが見たら嫌な顔をしますから。
(『座布団一枚! 桂歌丸のわが落語人生』)

 
 熊手は帳場に運ばれるのだった。
 また、お酉様を口実に子供を連れて真金町へ来て遊ぶ客も多く、その間、子供を帳場で預からなければならなかった。祖母に可愛がられていた巌はおもちゃをたくさん持っていたので、子供たちの相手をさせられることもずいぶんとあった。帳場が託児所にさま変わりした。
 

 

第2回

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