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玉川福太郎~第12回 二代目東家浦太郎の悲嘆

 

二代目東家浦太郎の悲嘆
 福太郎の葬儀は山形で行われることになり、関東からも関西からも浪曲師が現地に向かった。しかし留守番も必要だということで、東京に残ることになったのが二代目東家浦太郎だった。逝去の翌朝、木馬亭を訪れた浦太郎は「俺も会いに行きたい」と何度も言い、思い出を語り始めた。
 浦太郎と福太郎は同じ公演に出演することもあったので同期と勘違いされがちだった。しかし、浦太郎は1942年(昭和17年)生まれで1955年(昭和30年)に入門、1945年(昭和20年)生まれで1968年(昭和43年)入門の福太郎とは浪曲歴に十年以上の開きがある。だから、福太郎は浦太郎が太田英夫時代には「太田のにいさん」と呼び、浦太郎襲名後は「浦太郎にいさん」と呼んで立てていたし、浦太郎は「福ちゃん」と愛称で呼んでいた。キャリアの隔たりはあっても1980年代から30年近くにわたって、よきライバルだった。浦太郎は野球でいえば3割打者で、常に好成績を残す。節と啖呵の調和も心地よい。福太郎は時に場外ホームランを打って驚かせるが、大振りの三振と思える時もある。芸風は明るく、温かい人柄そのままだ。落語界にたとえれば浦太郎は日舞や音曲の素養が芸に生かされている六代目三遊亭圓生、福太郎は「芸は人なり」をモットーとした五代目柳家小さんだ。観客は自分の好みに合わせて、どちらかを贔屓にすればよかった。もちろん、中には2人の芸風の違いを好ましく思い、浦太郎も福太郎も好きというファンもいた。
 福太郎は浦太郎を先輩として敬い、常に遠慮をしていたように見える。では浦太郎は福太郎をどのように思っていたのか。この日、浦太郎は「数少ない浪曲の若手の中で力をつけてきたことを頼もしく思ったし、うれしかったよ」と語った。ありし日の姿を思い浮かべながら現実を受けとめざるを得ない浦太郎の表情には悲愴感が漂っていた。この日以降、ことあるごとに「どうしても福ちゃんのことを思ってしまう」と語り、舞台でロレツがまわらない症状が表れた。脳梗塞だった。幸い軽くすんだが、喪失感から立ち直るには時間がかかった。

 
芸人伝_玉川福太郎第12回_芝、福太郎、英夫
左から芝清之、玉川福太郎、太田英夫(二代目東家浦太郎)1991年4月21日
 
芸人伝_玉川福太郎第12回_節劇、神崎東下り、福太郎、武春、英夫、木馬亭
節劇「神崎東下り」左から、馬喰らいの丑五郎(玉川福太郎)、茶屋の婆(国本武春)、神崎与五郎(太田英夫)1994年12月23日木馬亭

浪曲界は家族
 喪失感を味わっていたのは浦太郎だけでない。ほとんどの浪曲師がつらい思いをしていた。福太郎は「浪曲界は家族なんだ」とよく言っていた。それぞれの立場でみんなが力を合わせていかなければならないということを常に考え、それを実践していた。それだけに浪曲師には上下の別なく愛され、信頼される存在になっていた。
 福太郎と電車のイス席に隣り合わせで座ったことがある。途中の駅で停車した時、福太郎は話を止めてパッと立ったが、「先を越されちゃった」とつぶやき、再び席についた。どうしたのだろうと思ったら、高齢の女性が乗ってきたので、向かいの席の外国人男性が席を譲っていたのだ。福太郎は穏やかなまなざしで男性を眺め、「礼儀正しいなあ」と感嘆の声をもらした。どのような人にも分け隔てなく温かく接することができる人だった。浪曲師たちそれぞれが福太郎について、このような独自の思い出を持っていることだろう。
 
遺志を継ぐ

 

先輩がたが作ってくれた浪曲で、おまんまを食べてきた。オレの代でつぶしちゃ申し訳ないよ。古い演題も残す。新作もどんどんやる。ひとりでも浪曲ファンを増やしたい。 (「月刊浪曲」163号 1995年11月号「芸豪烈伝」)


 福太郎のこの熱い思いを、残された者たちは受け継いでいく。国本武春が浪曲界をリードするようになる。美穂子は2006年(平成18年)の名披露目で玉川奈々福と改名したのを機に浪曲師としての活動を本格化させる。太福の育成には福太郎の芸の上のおじさんに当たる玉川桃太郎とその妻で曲師の玉川祐子、大利根勝子などが協力してくれた。
 その結果、2023年現在、観客層は世代交代をしながら若干若返り、浪曲師ばかりか曲師にも入門者が続々と現れている。

 

私は自分の浪曲は自分と同年代の人にまずわかってもらえばいいだろうと思ってます。ですから四十代の浪曲の人は四十代の人に喜んでもらえる浪曲をやればいいし、二十代、三十代の人っていっても、今はそういう若い浪曲の人はいませんけど、自分の年代の人にせめてわかってもらえる浪曲を作っていけば、みんながそうやってやっていけばまだまだ浪曲はやるものによって、やり方によって(可能性がある)大変すばらしい芸能だと私は思ってるんですね。 (「浪曲に風が吹く」)


 2023年(令和5年)に木馬亭定席で行なわれた「玉川福太郎 十七回忌一門会」には浪曲界をリードする存在になりつつある奈々福や太福が出演するだけでなく、それぞれの弟子、つまり福太郎の孫弟子も出演して活況を呈した。バトンは確かに受け継がれている。

 
芸人伝_玉川福太郎第12回_福太郎 十七回忌一門会。左から、太福、き太(太福の弟子)、わ太(太福の弟子)、福助、こう福、みね子、奈々福、奈みほ(奈々福の弟子)、鈴(みね子の弟子)。
十七回忌一門会。左から、太福、き太(太福の弟子)、わ太(太福の弟子)、福助、こう福、みね子、奈々福、奈みほ(奈々福の弟子)、鈴(みね子の弟子)

玉川福太郎(たまがわふくたろう。本名=佐藤忠士)浪曲。1945年(昭和20年)8月12日- 2007年(平成19年)5月23日。61歳。
 
当館の出演記録

[開催日]
2002年(平成14年)4月3日 横浜にぎわい座 試演会
2002年(平成14年)9月9日 今よみがえる浪曲十八番集
2003年(平成15年)2月2日 夫婦の日に贈る 夫婦のための演芸会
2004年(平成16年)1月6日 新春 玉川寄席
2004年(平成16年)9月4日 秋の味覚と ほろ酔い演芸会
2005年(平成17年)3月7日 玉川演芸会
2006年(平成18年)2月1日 玉川演芸会

 

第11回

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