上質のボードビルショー
早稲田大学人物研究会のインタビューで好きな芸人を聞かれたマンガ太郎は「トニー谷」と答えている。ソロバンの珠の音を楽器代わりにして歌って踊る芸で知られるトニー谷は芸達者なボードビリアンとして誉れ高い。マンガ太郎の芸も歌いながら洒脱な漫画を描き進めるというもので、「漫画ボードビルショー」と呼んでいたこともある。ステージ漫画の先輩には関西に木川かえるがいる。木川の場合はジャズをBGMとして流し、説明を加えながら絵を描き進めるというもので「ジャズ漫画」と称していた。似顔絵漫談の晴乃ピーチクはモデルになった観客と会話をしながら絵を描き進める。漫才師だった経験を生かし、モデルの発言にツッコミを入れて笑いを取った。ステージで絵を描く芸にも個性が必要だということが分かる。マンガ太郎はボードビルとしての漫画ショーを目指し、体現していた。
マンガ太郎の当館への出演は2004年(平成16年)8月4日の「堺すすむとファミリーショウ」が最初だ。この時はアシスタントの那須野裕(なすのゆう)と出演した。舞台上に宝船のパネルが置かれ、宝船の帆が模造紙でできていて、そこに絵を描いた。大舞台でも映える演出だった。
次の出演は2010年(平成22年)2月1日の「爆笑演芸会」。5年半も間が空いている。それには訳があった。初回の出演は先代三遊亭圓楽などのマネージメントをしていた星企画の藤野社長の口利きで実現した特別なものだった。今後、当館から直接出演依頼をしても断られるだろうと私は考えていた。
優しげなまなざし
2009年(平成21年)秋、浅草・東洋館に出演する芸人たちがたまり場にしている居酒屋で私が飲んでいると、サムライ日本のメンバーなどと一緒にマンガ太郎も入ってきた。サムライ日本は当館にもしばしば出演してくれていたので、マンガ太郎とも知己を得ることができた。マンガ太郎は東京演芸協会に入会し、漫画漫談で東洋館の舞台に立っているという。恐る恐る当館への出演をお願いすると、快諾してくれた。
マンガ太郎は酒席でも楽しかった。騒いだりはせず、静かに盃を重ねながらウイットに富んだ会話で場を盛り上げた。柔らかな物腰と優しげなまなざしも魅力的だった。知的でお洒落な雰囲気が漂い、芸人仲間の信頼も厚かった。
そのような人柄が舞台でも現れ、観客をいつもとりこにしていた。当館の出演依頼の間隔も徐々に短くなっていった。そして2014年(平成26年)6月のこと。9月に予定していた「日本演芸家連合まつり」に出演を依頼したところ、「ちょうどその頃は船に乗って世界を旅しておりまして、残念です」という答えが返ってきた。この会話から2ヶ月もたたぬうちに永遠の別れを迎えることになる。肝臓がんだった。実は2012年(平成24年)にがんが判明し、肝臓の半分を切除する手術を受けていたが、体調の変化をまったく感じさせない舞台を続けていたのだ。「演芸家連合まつり」の出演の辞退は死期を覚悟したものだったのかも知れない。
マンガ太郎の逝去の後、今のところ、ステージ漫画の芸を行う者は現れていない。
マンガ太郎(まんがたろう。本名=朝倉康夫)漫画漫談。1941年(昭和16年)8月10日 – 2014年(平成26年)8月5日。72歳。
当館の出演記録
2004年(平成16年)8月4日 堺すすむとファミリーショウ
2010年(平成22年)2月1日 爆笑演芸会
2011年(平成23年)3月10日 爆笑演芸会
2012年(平成24年)2月15日 爆笑演芸会
2012年(平成24年)7月13日 爆笑演芸会
2013年(平成25年)2月15日 爆笑演芸会
2013年(平成25年)7月14日 爆笑演芸会
2014年(平成26年)4月14日 爆笑演芸会
←
第2回