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第1回.ウイットに富んだ大人の芸

 

ウイットに富んだ大人の芸

 模造紙をキャンバスのようにスタンドで立て、歌いながら女性の姿を描く。そこに男性が描き加えられて二人でダンスをしている絵となる。しかし男性の顔は隠れている。女性の背後にもう一人の女性が描かれる。この女性の目の前に男性の顔が描かれ、二人がキスをしている絵に。ダンスをする女性の上にはたくさんのハート、もう背後の女性にはハートは一つ。妻の愛情に支えられながらも浮気をしてしまう男心を描いた作品だ。この一連の流れを描くのにわずか1分。筆致も軽妙でスマートだ。洒落た大人の芸となっている。マンガ太郎のマンガショーは生粋の寄席芸とは一線を画している。
 マンガ太郎の芸歴は『NHK趣味悠々 覚えて楽しい! 似顔絵教室』(日本放送出版協会。2003年発行)、早稲田大学人物研究会のHPにある「会見録」や新聞記事で知ることができる。
 
中3で漫画家デビュー
 マンガ太郎の本名は朝倉康夫。出身は山口県。徳山(現在の山口県周南市)の城主、毛利家に仕えた絵師、朝倉南陵を祖先に持つ。
康夫は幼い頃から漫画を描くのが好きだった。数字の8の字に手と足をつけたら、8が顔と体に見えて立派な漫画になると教わり、小学校に上がってからは「8の字漫画」でストーリーを作った。同級生を主人公にして『〇〇くんの冒険』というようなタイトルをつけてクラス中に回覧した。
 中学3年の時、作品を出版社に持ち込み、セミプロとなった。当時は貸本屋がはやっており、その店頭に並ぶ単行本の漫画を描いた。憧れていた手塚治虫のように月刊誌に掲載されるにはかなりの実力が必要だったが、貸本屋の単行本はそれほどの実力は求められないだけでなく、一冊の原稿料は1万5千円くらいになった。
 漫画を描くのは授業中。それは高校生になっても変わらなかった。高校教師の給料が6千円か7千円の時代だったので、康夫は高い煙草を買って、先生たちにおすそ分けをした。そのおかげで授業中の漫画制作は教師公認だった。こうして数冊を出版したが、難しさも実感し、プロの漫画家になる自信は薄れていった。
 
ステージ漫画
 高校卒業後は将来性を考えて、専門学校に進み、デザインを学んだ。ところが面白味を感じることができなかった。
 
同じ絵の世界でも、デザインにはジョークがないんですよね。ボケもなければツッコミもない、みたいな(笑)。これは自分には向いてないなと悟りました。(『NHK趣味悠々 覚えて楽しい! 似顔絵教室』)
 
 専門学校を卒業したものの、デザインの仕事にはつかず、会社勤めをしたり、アルバイトをしたりした。迷いが続く中、これならばと思う芸に出会った。それが即興のステージ漫画だった。当時、3、4人はそのような芸人がいたという。中でも春田美樹(はるたみき)の芸を見て衝撃を受けた。観客に何か描いてもらい、それを漫画に仕立てるというもので、実に楽しそうだった。自分はこういう芸が好きだということを改めて実感し、早速、入門を願い出た。
 
 朝10時くらいに先生の自宅にみかんか何か持っておじゃまして、すっかりうち解けて、お昼ご飯をご馳走になったのよ。なあなあな感じになっちゃって、午後には破門になっちゃった。というのも、「いつからステージに立てますか?」と率直に聞いてしまったら、「馬鹿者! 3年は鞄持ちしろ」なんて怒られて。「明日からやらせてください」と頼んでも、「そんなに簡単なものじゃない! お前はクビ!」って言われちゃったの。(早稲田大学人物研究会「会見録」)
 
 一ヶ月後にプロダクションの人が来て、キャバレーの舞台に立つ仕事を与えてくれた。弟子として認められたのだ。しかし、稽古をつけてもらうことはなかった。漫画はアイデアが勝負なので、師匠と同じことをやっても意味がなく、オリジナルの芸を見つけなければならない。そこで、似顔絵で漫画を作るということを始めた。
 ところが舞台に立った瞬間、足がすくみ、思うような絵が描けなかった。客からは「酒がまずくなるから引っ込め」とヤジを飛ばされ、物を投げつけられた。逃げ出すように舞台を降り、辞めたいと申し出たら、「明日も仕事を入れてしまったので、それをやってから辞めてくれ」と言われた。
 翌日、舞台に立ってみると、落ち着いて描くことができた。客の反応もよく、これが生涯の仕事となった。1960年代初め、21歳の時だった。
 

 

 

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