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第1回.人気漫才の頃

 

人気漫才の頃
 1960年代の演芸ブームの第一線で活躍していた漫才コンビに晴乃(はるの)ピーチク・晴乃パーチクがいる。前名を直井オサム・大沢ミツルといい、1958年(昭和33年)にビクター専属となったのを機に改名した。1961年(昭和36年)には第6回NHK漫才コンクールで優勝し、人気も出て、活躍の場も広がっていったが、1973年(昭和48年)にコンビを解消している。私もコンビ名は知っているが、どのような漫才であったのか覚えがない。CD「東京漫才傑作集」(コロムビア)にピーチク・パーチクの漫才「言葉アラカルト」が収録されている。市販の音源としては唯一のものといえるかも知れない。ピーチクが進行役、パーチクが受け手となって、漢字や方言などを素材に言葉遊びを展開している。軽快で明るいやりとりが魅力だ。その中で、歌詞を所々抜きながら歌うというのがある。「船頭小唄」は「俺は河原の 枯れすすき 同じお前も 枯れすすき どうせ二人は この世では 花の咲かない 枯れすすき」という歌詞だが、これを「俺は 枯れすすき 同じ 枯れすすき どうせ この世では 花の 枯れすすき」とメロディも飛ばしながら歌う。他に「勝って来るぞと 勇ましく」で始まる軍歌「露営の歌」や「あの子かわいや カンカン娘」の「銀座カンカン娘」も抜きながら歌い、場内をわかせている。また新派「婦系図(おんなけいず)」のお蔦と主税(ちから)の別れの名場面を漫才に仕上げている。
 「お蔦、お前、さむくないかい」「こんやの あんたは しんせつねえ」「つきは はれても こころは やみだ。お蔦、すまねえ、おれと わかれてくれ」「わかれろ、きれろは げいしゃの時に いうことよ」というセリフの下線部を「へ」や「ち」に替えて遊ぶ。「へ蔦、へ前、へむくないかい」「へんやの へんたは へんせつねえ」となったり、「ち蔦、ち前、ちむくないかい」「ちんやの ちんたは ちんせつねえ」となったりする。その後、客席からリクエストを取り、「き」や「か」でも演じてみせる。笑いに包まれて舞台と客席が一体となった様子が伝わってくる。
 
漫才となるまで、そして解散後
 富澤慶秀著「『東京漫才』列伝」(東京新聞出版局。2002年発行)によると、晴乃ピーチクは本名、直井利博。1925年(大正14年)、東京・北千住生まれ。戦後の混乱期を闇屋や進駐軍勤めをしたり、地方回りの劇団に入ったりして過ごした。しかし劇団には早々に見切りをつけ、浅草の松竹演芸場に出入りして1954年(昭和29年)大沢ミツルと漫才コンビを組み、直井オサムと名乗る。その後、オサムがピーチク、ミツルがパーチクとなった。
 20年間にわたったコンビの解消後、似顔絵漫談で再び舞台に立つまでのいきさつは『NHK趣味悠々 覚えて楽しい! 似顔絵教室』(日本放送出版協会。2003年発行)に詳しい。
 似顔絵なら漫才で培った話芸を生かし、お客さんと会話しながらできるのではないかと考えた。しかし、絵は見るのは好きだったが、描いたことはなかった。基本を身につけるための地道な勉強を始める。
  
 まずは線をまっすぐに引く練習から。束ねた新聞紙に墨と筆で、来る日も来る日も線を描いて。誰にも教わってないんですけどね。絵を見ることはしてたから、なんとなく、こういう練習が基本になるんじゃないかと思ったんですよ。それを1年ぐらいやってたかな。
 
似顔絵の武者修業
 のびのびと線が描けるようになって、やっと似顔絵の練習に。映画スターや政治家の写真を見て、ひたすら描き続けた。「似てない」と思っても、その線を消さず、上から修整していき、どこが違っているかを確認し、忘れないようにした。そのようにしてだんだん一回で描けるようになると、いよいよ実践に繰り出した。飲み屋など人が集まっている所へ行っては似顔絵を描いた。武者修行である。
 
 でも、一応、顔と名前が売れてたから、いろんなこと言われましたよ。「なんでこんなことやってんだ?」
 ちょっとは描けるようになったとはいえ、うまく似ないこともありましたからね(笑)。「似てねぇじゃないか」って言われたり。それでも〝これを超えなきゃ俺の目指す舞台はできないんだ〟という気持ちで、とにかく耐えて忍んで。(『NHK趣味悠々 覚えて楽しい! 似顔絵教室』)

 
 似顔絵漫談として舞台に立てるまでに、その後3年ほどを費やした。
 

 

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