横浜にぎわい座 誕生物語
寄席・劇場で連日華やいだ 横浜の街
横浜開港をきっかけに、横浜には多くのもの・人・文化が集まりました。人の行き来が盛んになった伊勢佐木町を中心とする横浜の街には寄席や芝居小屋が立ち並び、連日賑わいました。明治35(1902)年には伊勢佐木町に6軒の劇場と13軒の寄席があったという記録が残っています。伊勢佐木町には、正月や人気興行の時には千人を越える観客を収容したと伝わる落語の寄席の新富亭、浪曲の寄席としては「関東一の寄席」とたたえられた寿亭がありました。「横浜にぎわい座」の由来になった「賑座」という劇場もありました。
野毛でも、神社の境内では辻講釈や落とし噺(落語)が、空き地では大道芸が行われており、明治時代には小規模な寄席が数件町内に生まれています。
東京の劇場街に勝るとも劣らない活気を誇った伊勢佐木町の興行街の賑わいは、関東大震災後は映画館へと転身する劇場もあったものの、戦前まで続きましたが、終戦を迎えると伊勢佐木町周辺は米軍に接収されカマボコ兵舎が並びました。そして接収された伊勢佐木町の近くの野毛に人が集まり、野毛の街は闇市で栄えていくことになります。昭和21(1946)年には映画と実演を行ったマッカーサー劇場が、昭和22(1947)年には美空ひばりが初舞台を踏んだ横浜国際劇場が相次いで開場し、野毛の街は活気に溢れましたが、だんだんとテレビやラジオなど他の娯楽と入れ替わり、次第に寄席や劇場は姿を消していきました。横浜駅西口にあった相鉄文化会館(昭和32(1957)年開業)の地下にも寄席がありましたが、一時は寄席が横浜の街から消えた時期もありました。
大衆芸能を愛する心が生んだ 「横浜にぎわい座」

横浜にぎわい座が誕生するきっかけとなったのは、横浜で生まれ育った落語家・桂歌丸が「横浜に寄席を」と横浜市に寄席の建設を要望したことに始まります。昭和51(1976)年に移転した中税務署の跡地を活用する計画が1980年代後半に持ち上がり、東急東横線桜木町駅の廃止によって、街の活気が失われるのを心配した野毛に住む人々からも「野毛に寄席をつくり、笑いの力で街おこしをしたい」という声があがりました。
こうして開港期から大衆芸能を愛し親しんできた土壌を持つ野毛に、落語・講談・浪曲・漫才などの大衆芸能の専門施設・横浜にぎわい座は平成14(2002)年4月13日に開場しました。伝統を今に受け継ぎ、新しい芸能を生み出す憩いとにぎわいの場として、これからも横浜にぎわい座は野毛の街と共に歩んでまいります。

